千の影が舞う秋に
第三話 「そこには何もない」
作 葉坂沙希也さん
「今日の晩ご飯は廃棄のパンだぜ」
「アニキひもじい!!」
そして静寂はやってきた。そして狭い部屋で、ゴーグルをかけた少女はじたばたと転がった。
「せっかく来たんだからどっか食べに行こうよぉぉぉ」
「そんな余裕はお前のせいで消えたんだよぉぉ」
逆切れというかなんというか、二人はお互いに怒鳴りあっていた。まあ、いつものことではあったが。
「だいたい女の子に廃棄のパンを食べさせる精神がどうかしてるのよ!!」
「食べたきゃ自分のお金で買って来い!!」
石谷兄妹の晩餐は、机にでんと乗せられたたくさんの廃棄パンやおにぎりだった。
大介のあまりの貧乏ぶりにバイト先から大量にもらえるものだった。大介はそれで十分に満足していたが、そんなものを鈴凛が認めるはずもなかった。
「女の子に買い出しに行かせるなんてアニキ、男として間違ってる」
「知るか、貧乏の前には男も女も関係ない!!」
クラスメイトが大介のこの様子を見ればずいぶんと驚くだろう。なんだかんだでお願いされると断れない大介がここまでお願いを拒否している姿は学校では見られるものではない。まあ、だた内弁慶なだけという説も十分にあったのだが。
「体壊したらアニキのせいだからね!」
「徹夜ばっかりしてるくせによく言うな」
「ムカっ、ちゃんと食べてるもん」
さらに言い返そうとした鈴凛は、突然鳴った携帯電話の着信音に阻まれた。
「誰よ……春歌ちゃんか」
相手が相手だったら切ってやろうと考えていた鈴凛だったが、それも叶わなかった。
とりあえず電話に出ようとした鈴凛だったが、目の前の大介が興味深々で自分の事を見ているのに気がついて場所を変えた。
「もしもし……うん、進也君は帰ったの?…………そう、それで……そっか、でもまだ5番目の季節までには気がついてないでしょう、様子見とけばいいんじゃない…………うん、じゃあね」
電話を切り、鈴凛はため息をついた。
すぐにでも5番目の季節はやってきてしまうだろう。それは逃れることのできないこと、春の次には夏が来るように、秋の次には冬が来るように……。
「鈴凛、早くしないと食っちまうぞ?」
「わっ、アニキひどいよっ」
なんだかんだいって、廃棄でも食べられては困る鈴凛だった。それ以外にこの部屋に食べるものはないのだから。
必死で自転車をこいでいた。
背中の鞄には杉森秀一郎から借りた本の重みが確かに感じられた。
それは、この現状を取り巻く謎を解く鍵なのかもしれない。どこに鍵穴があり、そして開かれた扉の向こうに何があるのかなど知りようもなかったけれど。
進也は確かに感じていた。
近く、事態は解決するだろうと。
それがどんな形になるのかまでは、彼には測り知ることのできないことではあったが。
「やっとついた……」
久杉町と一言で言ってもそんなに狭い場所ではなかった。簡単にたどり着けると思っていたが行きにも時間がかかった。帰りも少し道を間違えてしまったので少々遅くなってしまった。
もう、夕食の準備はできてしまっているのだろう……。
進也は慌てて玄関の扉を開けた。
「ただいまぁ」
「……遅かったね」
玄関には千影が待ち構えていた。思わず身構える進也に、千影は少しきつめの視線を向けた。
「本を………返してくれないか?」
進也はびくっと体を震わせた。何故知っているのだろう、そんな動揺をなんとか抑えようと進也は怒鳴り返した。
「し、知らねぇよ!」
脱ぎ掛けだった靴を適当に放り投げ、進也は慌てて階段を駆け上ろうとした。その腕を千影につかまれる。
「知らないはずはないだろう………君のその背中にあるんだから」
断言する。その氷の瞳を、進也は正視することなどできなかった。
「何にも入ってねぇよ、はなせ!!」
進也は乱暴にその腕を解くと階段をどんどんと音を立てながら駆けていった。
それを黙って見ていたのは、二人の兄である和久だった。
その視線を千影に気付かれる前に、和久はリビングに戻った。その表情には、どこか決意めいたものが浮かんでいた。
「おい、進也。ご飯食べないのか?」
階下から大声をあげる和久。もうすでにご飯の準備は整っていたが、当の進也が部屋から出てこなかった。返事すらもない。
「まったく……」
和久は一端台所に戻った。そこには母親と千影が座って待っていた。
「ちょっと様子見てくるから……先に食べてて」
「どうかしたのかしらねぇ?」
母親が心配そうにしていたが、帰ってきた時点では元気だったのだ、そんなに急激に体調が変わるとは思えなかった。
そして、和久には大体の理由が分かっていた。
──まったく。
進也は千影と顔を合わせたくないのだろう。
千影に聞いても原因は分からないと言う。かといって進也は進也で訳の分からないこと言っている。
『千影と鞠絵姉ちゃんが入れ替わった』
……そんなことを。
そんなことを突然言い出されても理解できるわけもなかった。今までは普通に接していたのに。
だいたい鞠絵などという存在を和久は知らない。だからこそ進也が何を言っているのか理解できないのだ。千影が言うような、ただの反抗期だとは思えない。
──本当に、知らない……はずだ。
一抹の不安はあった。本当に自分は忘れているのかもしれない。けれど、そんなことがあるはずがないのだ。もし本当に大切な妹がいたとして、それを忘れてしまうなど。仮にあまりにつらくて忘れてしまったとして、それを思い出すようなものも処分してしまったとしても、妹がいたという事実は変わらない。なのに、鞠絵という少女がいた痕跡は0だった、戸籍を見れば分かる。母親にも聞いたが、そんな事実があるようには思えなかった。
無いことを証明するのは在ることを証明するよりも難しい、そうとしても……。
階段を上がり、和久は進也の部屋の前にきた。
トントン
軽くノックする、返事はなかった。
「進也、ご飯食べないのか?」
尋ねる、けれど返事はなかった。
「入るぞ」
部屋の住人に一応の断りを入れ、和久は部屋の扉を開けた。扉に鍵はないので、何かつっかえるものがない限り扉は開く。そしてそんなものはなかった。
「……進也?」
てっきり部屋にはいないのか、ふてくされて寝てしまっているかと思っていた和久は進也が机に向かった本を読んでいるのを見て少々驚きを隠せなかった。
「勉強か?」
「違う」
まるで意思疎通のできていない親子のような会話だった。現に意思疎通はできてはいなかったが。
「兄ちゃんには関係ねぇよ……」
大きくため息をつきながら進也は眼に腕をかぶせて、背を反らすように背伸びをした。
「なぁ、進也。お前は何をしようとしてるんだ?」
「言ったってわからねぇんだろ。鞠絵姉ちゃんをあいつから取り返すんだ!!」
怒りの視線を兄に向けて、進也は再び本に視線を落とした。
和久はため息をついた。その表情はどこか翳っていた。
「千影か……」
「あいつは鞠絵姉ちゃんを消したんだ、兄ちゃんが覚えてなくってもな」
「確かに、俺には理解できないんだろうな」
弟の言葉を信じようにも、和久には一切の記憶がない。千影は妹だと、ずっとそうして過ごしてきた。それを否定することはできそうにない。
「ただ、飽きっぽいお前が本を読んでまでして、その鞠絵って子を取り返そうとしてるんだ……お前がやろうとしてることは、多分本当なんだろう」
進也には辛かった。兄が鞠絵を他人のように言うことが。あれだけ心配していたのに……あれだけ愛されていたのに……。
「兄ちゃん……」
ふともれる呟き。震えながらも、それは兄の元に届いた。
「どうした?」
応じる声。それは兄としての声。
「俺、正しいのかな……」
この世界では孤立した記憶、それを支えにして、支えにするよりない少年。
さほどの間はなかっただろう、兄の言葉は届いた。
「お前が、そう信じる限りはな」
共に戦うことも出来ない兄、それはできる限りの言葉だった。
「俺……辛いよ…」
肩先が震えていた。そして声も、震えるのを堪えていた。こんな少年に、孤独を押し付けた世界。少年は自分を信じる限り、孤独なのだろう。そして、自分の記憶が偽りなどと割り切れる人間などいなかった。どっちにしろ八方塞りなのである。突破口が見つからない限り。
「進也、多分いつか、時間がお前の記憶を押し流すだろう。それが嫌なら、やっぱり戦うしかないんだよ」
進也に言葉はなかった。
「俺にできることはわずかだろうけどな……」
これ以上は無駄だろうと感じた和久は、扉を閉じた。
「飯持ってくるから、ちゃんと食べるんだぞ」
暗い表情を、なんとか崩していく。下にいる二人には悟られてはいけないことだ。それでも千影は勘がいいから分かってしまうのだろうけれど……。
──進也。
事態は、思うよりも手の届かない場所にあるようだった。
階段の上から、かすかに泣き声が聞こえたような気がした。
だから、祈るしかないのだろうか。
「俺は姉ちゃんのいない世界に迷い込んで、そして帰る方法なんてわかんない。どうか俺を帰してください」
棒読みだった。それもそのはずだった、それは本の中の一節をもじっただけなのだから。
『私は季節のない世界に迷い込んでしまった、そして帰る手立てなど知りようもない。どうか私を帰してください』
主人公の独白を。
進也は外を歩いていた。秋の夜風が涼しい。本に飽きて気分転換をしようとしていたところだ。本嫌いの進也にしては驚くべきことだったが、なんとか半分を過ぎたくらいまで読み通した。そして今の現状が驚くべきほど本の内容に似ていることを知った。
「くそっ……」
だが、異なる点もある。鞠絵が消えたという事態を本の内容では説明しきれない。ただ主人公は不思議な世界に巻き込まれたのだ、それも普段暮らしていた世界に干渉してきたのは、Fifth
seasonの住人、フィアの方からだ。千影は鞠絵がいるときにはいなかった、そのはずだ。
そして章と名前の一致、これもよく分からない。まだ千影と春歌しか知らないが、あと二人一致する人間が周囲に現われれれば話は別だ。何かの意味を持つに違いない、しかしそれは今は分かりえないことだ。
「姉ちゃん、どこにいるんだよ」
あるいはどこにもいないのだろう。
「呼んだかい……」
そして思わぬ声がした。
進也は身をひねり、声の主を睨みつけた。
「……千影」
「呼び捨てとは……感心しないね」
「言ってるだろ、お前なんか姉ちゃんじゃねぇって!」
怒鳴りちらす進也は、一瞬それを後悔した。千影の表情に、寂しさを感じ取ってしまったから。しかし、進也はそれを無視した。
すると千影は、進也に何かを投げてよこした。緩やかに飛んでくるそれを進也が受け取ると、それはストールだった。
「夜は冷えるよ……」
「…………」
進也は何を言っていいのか分からなくなってしまった。自分への気遣いなのだろうか……。どれだけ考えてもこんな行為に裏があるようには思えない。しかし、素直に行為と受け取るのもしゃくだった。
「使ってやるよ……」
それが精一杯の妥協だった。
そしてそのストールを肩にかけた時、進也に戦慄が走った。
「これ……」
そう、それは鞠絵が使っていたものと全く同じだった。端の綻びまでそっくりだった。
「これ、お前、どうして!?」
うまく言葉にならない。思いもかけずに与えられた手がかり……。そして鞠絵がいるという物的な証拠、それは進也の記憶と一致するというだけで、何にもならないものだけれど。
「急ぎたまえ……5番目の季節がやってきてしまうからね」
「5番目の季節って………」
Fifth season、それ以外には考えられない。しかしそれよりも問題は……。
「これ、どこで手に入れたんだよ!」
ストールを突き出し、千影に詰問する。しかし、千影はあっさりと背を向けて歩き始めていた。
「部屋に転がっていたと言ったら………怒るかな?」
「ふざけんな!!」
しかし進也は千影を追わなかった。何を言っても千影は簡単にいなしてしまう。彼女から話す気にならなければ、追いかけも仕方ないのだ。
「姉ちゃん……」
夜風にさらされて冷たくなりかけていたストールを抱きかかえながら、進也は呟きをもらした。
「和久、これを進也君に渡してくれないか?」
翌日、教室で秀一郎の口から挨拶よりも先に出たのは、そんな言葉だった。
「ん、なんだこれ?」
「それと、こう伝えてくれ。来るか来ないかは自由だ、役に立つかどうかは分からないからな、と」
「…………あいつの兄として言っておく、120%来ないぞ」
それは公演会のパンフレットだった。
開催日は10月9日の日曜日、三連休の真ん中。
タイトルは、私の求める文学。公演者……エリケット・ラッセン。
そんな見出しを見て、和久はそう断じた。
しかし、秀一郎は余裕とも取れる笑みをこぼした。
「60%くらいに抑えてやってもいいと思うが」
「む、何だ何だ、どっかにいくのか?」
そこに大介が首を突っ込んできた。そしてパンフレットを見るなりため息をついた。
「……講演会、つまんなそうだな、俺は行かないぞ」
「お前は誘ってない、安心していい」
「じゃあ和久か? こういうの興味あるのか?」
心底意外そうに自分を見つめる大介に和久は、少々癪に障るものはあったがそれはそれで置いておくことにした。
「誘われたのは俺じゃない、俺の弟の進也だよ」
「進也君? だって小学生だろ」
「理解や目的があれば、年は関係ないさ」
そういう秀一郎を、大介は疑わしそうに見ていた。
「……大体なんで進也君なんだ?」
「大介には到底理解できないよ」
「うわ、むかつくぞそれ」
などと言いながらとりあえずパンフレットを読んでみる大介。
「エリケット・ラッセンって誰だよ?」
「君に教養はないのか、ノーベル文学賞を受賞した作家だよ」
「知らなくて悪かったなぁ……」
押し付けるようにパンフレットを返し、大介は挑戦的な笑みを浮かべた。
「どうだ、進也君が来るかどうか賭けないか?」
「来たかどうか確かめる気があるのか」
やれやれと肩をすくめながら秀一郎は自分の席に戻りだす。
それを言われた大介は、いちいち講演会にまで行って確かめるのも面倒だなぁなどと考えていた。
一方の和久は、自分の席から離れていく秀一郎の腕をとっさにつかんだ。
「秀一郎、待て」
「どうかしたのか?」
引き寄せられた秀一郎は少々驚きの表情をしながらも、その歩みを止めた。
「お前は、進也の周りに何が起こってるのか知ってるのか?」
真剣な表情だった。
和久だって弟の様子が変だということは知っているし、多少は秀一郎や大介にも話していた。
そしてさして親しくないはずの秀一郎が、進也をこんな堅そうな講演会に誘っている。何かあると思わないほうがおかしかった。
「進也君に何が起こっているのかは知らない。ただ、僕たちも飲み込まれていることは確かだ……」
もう脱出できないところまでいるのかもしれない。
ただ、進也がこの状況を脱する鍵であるのは確かだろう。小説の章のタイトルと一致する妹の名前、そしてその妹、千影を否定する進也。図ったようにやってきた春歌と鈴凛。……何かが仕組まれているのだろう、そう考えるのが自然だった。たとえ状況がどれだけ不自然だとしても、ありえないことだとしても。
「今日、和久の家に行かせてもらうことにするよ。直接誘った方がいいだろうから」
「ああ、分かった」
そしてほんの少しの勇気が、自分には必要だろう……秀一郎はそう思う。
妹達と向き合わなければ、この事態は解決しない。そうだろう……。
──まともに話せるかな。
「和久にはどこまで話すべきなんだろうな」
「……分かってることすべてと、言いたいところだけどな」
大介と先に別れ、和久と秀一郎は帰路についていた。
アスファルトの道路に紅葉した葉っぱが彩っていた。それを踏みしめながら、夕暮れの街をゆっくりと進んでいく。
赤い風景が、まるで別世界にいるように不思議な情景を浮かび上がらせる。
「俺には理解できないと思う」
「僕にだって理解できているわけじゃないが」
一瞬寂しそうな表情を浮かべる和久。
秀一郎はその顔を見上げ、また前を向く。どんな言葉をかけるべきなのか、珍しく秀一郎は迷ってしまった。だから黙っていた。無理に言葉をかけなければいけないほど、和久のことを知らないわけではない。
「昨日、進也と話をしたよ。あいつは考えられないくらいに一生懸命に……鞠絵って子を取り戻そうとしてる。俺の妹だって、進也は言ってたけどさ」
鞠絵という名は、あの本には関連はないだろう。何回か読んだが、すべてを暗記しているわけではない。
「けど、俺の妹はずっと千影で、誰かと入れ替わったとか言われても理解できるわけがなくて……」
記憶、それを否定するなんてことはできるわけがない。そして否定できないからこそ、進也はその記憶を信じて戦っているのだろう。孤立し、支えのない記憶を。
「秀一郎、お前は進也を助けられるのか?」
「和久……」
君はどれだけ不幸なんだろう、そんな言葉が喉まで出かかった。しかしそれをかろうじて飲み込む。
進也の記憶が正しいのなら、千影は幻とかそういった存在になってしまう。何かということを特定することはできないけれど、少なくとも彼の妹ではいられない。そして妹だと思ってきたことも、偽りの記憶になってしまう。
ありえない……どう考えてもありえない。しかしもう、常識は通用しない場所にいるのかもしれない。
「僕の考えすぎだ……事態は何気なく過ぎていく」
質問に対する回答は避けた。進也を助けるとは、どういうことを指すのだろう。そしてそのとき、自分を含め世界はどこに行ってしまうのだろう。
「……進也を頼む」
「必ずしも期待に応えられるわけじゃない」
もう秀一郎は和久の顔を見ないことにした。彼の家が近づいてくる。
兄としての重圧を、自分に押し付けるのはやめてほしかった。
お互いを……大介を含め、親友だとは思っている。しかし自分には荷が重いということも分かっている。
できるのはせいぜい、進也を影で支えてやるくらいだろう。
家に着き、秀一郎は肩を落としながら告げた。
「和久も、努力くらいはしておいてくれ」
「……分かってる」
どう努力しろというのだろう……。
秀一郎は自分のセリフに嫌気がさした。
「やぁ、お帰り……兄くん」
「ただいま、珍しく早いな」
玄関に入ると、そこには千影がいて声をかけてきた。
「……久しぶりだね、秀一郎さん」
「え、あ、ああ……お、お久しぶり……」
千影が和久の後ろにいた秀一郎にも声をかけた。対する秀一郎はどぎまぎしながら何とか返事を返す。昔から知っている相手でも同年代の女の子相手では、秀一郎はまともに話すこともできなかった。
「進也、部屋にいるか?」
「ああ……こもりっきりだよ」
それだけを答えると、千影はリビングに入っていった。それを確認して大きくため息をつく秀一郎に、和久の呆れ返った声。
「お前、ほんと女の子ダメなんだな……」
「うるさい……」
なげやりな反論をし、2人は2階へ上がっていく。
「進也君は部屋で何をしているんだ?」
「さぁな、最近はなんかずっと本を読んでるけど」
「そうか……ご苦労だな」
きっとFifth
seasonを読んでいるのだろう。小学生には難解な部分もある、それを読んでいるとは本当にその鞠絵という子を助けたいのだろう。
読んだことのある自分が筋を教えてあげてもいい、しかし自分で読んでみた方が理解は何倍も違うだろう。
「じゃあ俺着替えてくるから、先に進也の部屋に行っててくれ。そこの奥だから」
「ああ」
和久が自分の部屋に入るのを確認して、秀一郎は進也の部屋に向かった。途中、千影とネームプレートのかかった部屋の前を通り過ぎる。
「……千の影が、か」
千影という名前がないというわけではない。まあ一般的には千景と書く場合が多いが。
春歌はまあ漢字の当て方がちょっと稀かもしれないがないわけでもない。
鈴凛はどうだろう、中華風といえば聞こえがいいが大介の両親は日本人であるし大介の名前からして釣り合いが取れていない感じもする。
「だいたい、何で妹なんだろうな」
それが共通している事項。
大した意味はないのかもしれないが……。
「さてと……」
そして進也の部屋の前に立ち、軽くノックする。
「誰だよ」
中から、乱暴な口調の質問が帰ってきた。家族以外がいるとは思っていないのだろう。そんなことで腹を立てるほど秀一郎に理解がないわけではなかった。
「昨日会った杉森秀一郎、と言えば分かるかな」
そう言った途端、部屋からどかっと鈍い音がして、ばたばたと駆けてくるような音がして、いきなり扉が引かれた。
「ど、ど、どうして、ここに!?」
「別に本を返してもらいに来たわけじゃないから、安心していいよ」
慌てて扉を開けに来たのだろう、座っていただろう椅子が倒れていた。
そして進也はびっくりした表情を固めたまま秀一郎のことを見上げていた。
「ただ、君の助けになればと思ってね」
軽い微笑みを浮かべて、秀一郎は言った。
「入ってもいいかな?」
「え、あ、どうぞ」
それに対して進也はどうも固くなっている印象だった。秀一郎は自分を見ているようで少々複雑な気分だった。
とりあえず中に入り、机の上に置いてあった本を見た。
「どこまで読めたんだい?」
「半分くらいかな」
「そうか、頑張ったな」
小説としては標準的な量だが、小学生が読むにしては多いのだろう。少々眠そうな顔からしても徹夜して読んだに違いない。そこまで一生懸命になれることを、秀一郎は純粋に凄いと感じる。
「和久にはFifth
seasonのことは言わないでいる。それと、君も気がついているかもしれない、章のタイトルと名前が一致していることだが」
開かれたページに近くにあったしおりを挟み、目次のページを開く。
「僕の妹が、春の歌と書いて春歌。和久の妹が千の影と書いて千影。会ったことはあると思う、石谷大介、あの背の高いやつだが」
進也の方を見る、小さく頷くのが分かった。
「彼の妹が、鈴凛という名前なんだ。鈴に凛……第2章『鈴の音の凛として』に一致する」
「……やっぱり」
「残念ながら、第4章に該当する人物を僕は知らない。ここまでくれば、誰かの妹なんだろうけどね」
秀一郎は、身近に座るものもなかったのでベットに腰掛けた。
進也は椅子に座った。そして遠慮がちに尋ねた。
「あの、どうしてそんなこと教えてくれるんですか?」
「迷惑だったかい?」
「そ、そんなことはないけど」
秀一郎は小さく息をついた。
ただの好奇心なのだろう、しかしそれはきっかけ。
それでも、困っている人を助けたいからみたいなご大層な理由でもないと自覚している。
「和久はあれでも落ち込んでるよ。君の力になりたくても、なれないって」
「……兄ちゃんが?」
記憶の相違、それがこんな本によって引き起こされているとは思い難い。
しかし、進也がこの本に原因を感じているのなら考えてみる価値はあるだろう。
「僕にも妹がいるけれど、突然できた妹だし、今まで一人っ子だったからそういう感覚もない。進也君の気持ちも、感覚的には分からない」
弟を思うこと、姉を思うこと。そんな絆を、秀一郎は自分の感情として知ることはなかった。
だから、知りたいのかもしれない。
少し強い風が吹き、窓がカタカタと音を立てる。
すぐに戻った静寂を切り裂き、秀一郎は告げた。
「そういう感情を持てる君たちが、ちょっとうらやましい」
どう答えていいのか進也には分からず、くちをぱくぱくさせていた。自分にとっては当たり前すぎて意識しないこと……。言葉にしようもないことだったから。
そんな進也を見て、秀一郎は自嘲した。
「……関係ない話になってしまったね」
そのままカバンに目を落とし、中から朝和久達に見せたパンフレットを取り出した。
「今日来たのは、これを見せたかったからだよ」
「いつもは3人で来るのに……珍しいね」
「ん、まあそういう日もあるからな」
和久は着替えを済ませたが、進也の部屋には行かなかった。きっと二人の方が話は進むだろう。
「こんなところにいていいのかい…………待っているんだろう?」
「進也と話してるから、別に俺は行かなくても大丈夫だろ」
リビングで紅茶を飲みながら落ち着いている千影の正面に座り、和久はテーブルの中央に置いてあるクッキーに手を伸ばす。
「杉森さんか………進也くんとそんなに親しかったかな?」
「いや知らないけど、なんかの講演会に誘いにきたみたいだったな」
「………講演会?」
「そう、何とかラッセンとかいう」
ど忘れしたのか、和久は眉根を寄せた。
「何だったかなぁ……」
「エリケット・ラッセン……だろう」
「ああ、それそれ。よく分かったな」
「それほどでもないよ…………」
冷たい表情はさして変化していなかった。
しかし、その冷笑は少なくとも好意的なものではなかった。
講演会は6日後。
進也がOKしたので待ち合わせ場所と、自分の携帯の番号を教えておいた。
「じゃあ和久、帰るよ」
「ああ、気をつけてな」
進也は玄関まで来なかったが、きっと今も本を読みつづけているのだろう。
千影の姿が見えないのにほっとしながら、秀一郎は玄関を出た。
「やあ、杉森さん…………」
しかし、千影は玄関先にいた。
「あ、あ……千影、ちゃん……ど、どうした、の」
すでに秀一郎は千影の顔を見ないように俯いてしまっている。
「余計なことはしないで……ほしいな」
「よ、余計……」
そんな秀一郎に構わず、千影は彼に接近する。それを悟った秀一郎は慌てて距離をとった。
「5番目の季節はじきにやってくる…………」
「なっ!?」
秀一郎は思わず顔をあげた。しかしその先にすでに千影はいなかった。
そっと動く気配を感じたときには、すでに千影は自分の真後ろにいた。
「そこには何もない……情動は動くことを知らず、命の灯火は忘却を繰り返す」
「3章の冒頭、か………」
まだ頭だけは働いている。真後ろの気配に身動きもできないが。どうしてここまで冷たい空気が自分を覆うのだろう……気候のせいではないのに。
「君は……何者、なんだ……」
「さてね…………冷えるから、早く帰った方がいい」
そしてその凍えた空気が秀一郎を解放したかのように、彼は片ひざをついた。
振り向くが、もう千影はいなかった。
「時間が、ないみたいだな」
進也の部屋から明かりがもれている。
それを見上げ、秀一郎は立ち上がった。
その表情に、迷いはなかった。
そこには何もない……情動は動くことを知らず、命の灯火は忘却を繰り返す。
それがFifth season、二度と巡ることない季節。
そこは暖かく、白く、静止した世界。
どの季節よりも生き生きと、虚無が息づく場所。
青年が足を踏み入れようとしているのは、例えて言うならそんな世界だった。 (続く)
あとがき
シスプリなんだろうか、これ?などと思っています。
むしろ秀一郎君が大活躍です。まあこういうパターンが好きなんで……秋弘と春樹の関係もこんな感じですし。主人公とその参謀、みたいな。結局参謀の方が目立ってしまってなんだかなぁという結果になると思いますが。
次はきっともっと先になると思います。トーナメントもありますし。完結するのかなぁ……。
葉坂沙希也さんへの感想はこちら
hasakasakiya@hotmail.com
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