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千の影が舞う秋に
第一話「始まりを信じますか?」

作 葉坂沙希也さん


「姉ちゃんを返せ、この悪魔!」
 幼い罵倒が空気を震わせ、あたりに散っていった。あるものには、意味のある言葉として伝えられ、あるものには雑音のひとつとして処理されていく。目の前の少女は、どちらなのだろう。
「人聞きの………悪いことを言うね……」
 どうやら後者らしい。
 少年はひるむことはなかった。少女の性格は知っている。分かりやすいし、何より強烈な個性は忘れようとしても忘れられない。それに、見るものにとってはその姿は何よりも美しく映るだろう。捕らえたものをけして離さない魅力は、とても人間のものとは思えなかった。もっとも、少年にはその美貌も、気品ある澄んだ声も偽りにしか捉えられなかった。彼は、彼女の正体を唯一知る者なのだから。
「きみの姉は……私だよ」
「ふざけるな。鞠絵ねえちゃんを返せ!」
 そう、目の前の千影という少女は、進也の姉である鞠絵をこの世から消してしまったのだ。そして、世界は知らないうちに進行していってしまったのだ。自分の姉は千影であると。鞠絵なんて存在ははじめからなかったのだと。塗り替えられていく世界の中、進也は取り残されたように鞠絵の存在を信じていた。
「また言ってるのか、進也?」
 と、背後から声をかけてくるものがいた。
「やあ……兄くんか…………」
「兄ちゃん!」
 それは、二人の兄、和久だった。
「何度も言ってるだろ、俺の兄ちゃんを兄くんて呼ぶんじゃねぇ!」
 進也は再び千影の方に向き直った。
「おまえのほうこそ、何度言ったら分かるんだ?」
 弟の言い分などまるで聞いていないような仕草で、和久は進也の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「昔っから千影はいたじゃないか。それをなんで今になって姉ちゃんじゃないなんて言い出すんだ?」
「くそぉぉぉぉ!!」
 どれだけ望んでも、鞠絵の視線は、気持ちは、想いは、兄のものだった。こちらがどれだけ想っても、伝えても、訴えても、それは揺るぎもしなかった。ただ、一瞬戸惑ったような笑みを浮かべて、ありがとうと言うだけなのだ。それなのに、そこまで大事に想われているのに、和久だって必死で看病とかしていたはずなのに、もう、兄の記憶には鞠絵のことがない。
「ぜったいに姉ちゃんを取り戻して見せるからな!」
 進也はそれだけ言い残すと、二人の下から走り去っていった。
「なんなんだ、あいつ?」
「反抗期なんだろう………きっと」
 不敵に笑う少女の微笑みを、兄は知らなかった。


 本があった。
 それ自体には何の意味もなかった。
 開くことで、読むことで広がる世界。
 紙と文字が、動き出す瞬間──。
 些細な感情も、派手に動き回る登場人物も、その世界では本物であった。
 私達は観客に過ぎない。
 主人公と感情を共にし、あるいは反発しようと。
 そこにあるのは、本だった。


「鞠絵姉ちゃん鞠絵姉ちゃん!」
 進也はいつものように、無遠慮にその扉を開けた。
「今日学校ですごいことがあったんだ!」
「ふふふ、もうちょっと落ち着かなくてはダメよ」
 夕日の逆光の中、張りのある少女の声が響いた。
「うん、分かってるって。それでさ──」
 少年はその少女、鞠絵の言葉など意に介さなかった。当の鞠絵もいつものことなので笑ってやりすごしていた。
「今日学校でさ、理科の実験やったんだよ。それで先生がなんか知らないけど薬を混ぜてたらさ、ボンっていって爆発したんだ。漫画みたいだったぜ」
「まあ、大丈夫だったの?」
「おう、俺一番遠くで見てたからな、おっかねぇし」
「それはよかったわね」
 内心、先生はどうなったのだろうと心配になった鞠絵だったが、あえて聞かないことにした。なんとなく、気分のよくない話になりそうだったからだ。誰かが怪我をした話など聞きたくもない。
「姉ちゃん、また本読んでるんだ」
 鞠絵の趣味のひとつは読書だった。彼女は生まれついて体が弱かった。ベッドの上でじっとしているしかない彼女にできることなど限られていたのだが、それでも彼女は満足していた。満足しなければと、自分に言い聞かせている面もあったかもしれないが。
「ええ、面白いわよ」
「俺いいよ、教科書読んでても眠くなっちゃうから」
 そういうと、進也は入ってきた勢いで扉に向かって駆けていった。
「俺、母ちゃんに晩飯のおかず買ってこいって言われてるから」
「ええ、いってらっしゃい」
 進也は気が付いていなかった。鞠絵が読んでいた本がわずかに光を発していることに。これが姉との最後の別れであることに。
 その本のタイトルは「Fifth season -5番目の季節-」といった。
 かくして、物語は始まった。


「というわけで、相対的に君が悪いという方向でいいかな?」
「相対的にって時点で何かがぜってぇ違う!!」
「その何かを明確にできない限り君に勝ち目はない」
「ううぅ、和久ぁ、こいつの屁理屈何とかしてくれよぉ」
 と、泣きつかれはしたものの、和久には助けを出すつもりはあまりなかった。
「屁理屈とは失礼だな、確かな理論に裏打ちされた発言だ。僕の正義は揺るがない」
「お前が正義なら、相対的とか言わなくてもいいだろ?」
 和久がそう言うと、大介は天からの啓示を受けたかのように秀一郎に指を突きつけた。
「そうだ、相対的ってことはお前も悪だ」
「この世に絶対善も絶対悪もない。常に相対的でしかないんだから」
「やっぱり屁理屈言うよぉ」
 ふたたび和久に泣きつく大介を適当になだめながら、和久はため息をついた。
「どうでもいいんだけど、調理実習の失敗はどう考えても秀一郎が悪いと思うんだが?」
 そのものずばりの指摘に、秀一郎は一瞬慌てた。
「だ、だから僕は確かにレシピ通りにやったと言っている」
「塩と砂糖なんか、相対しなくても違うと思うぞ」
「まあ、その事実は認めないでもない」
 だんだん発言に力がなくなっていく秀一郎を見て、大介は和久の腕を歓喜の表情でぶんぶん振り回した。
「すげぇ、理論の壁を一点突破だ! あんたプロだよ」
「なんのだよ?」
 大げさなアクションに和久はまたため息をついた。
 いきさつを話せば、この3人で行った調理実習はひどい味になってしまったというだけだ。和久は普通にやっていたし、秀一郎はレシピを見ながら慎重に作業していった。しかし、大介はレシピなど無視して適当に「これが男の料理だ!」と叫んで千切りにすべきものをぶつ切りにしたりとかなり適当にやっていた。しかし、親元を離れて一人暮らしをしている大介の料理はそんなにひどいものではなかった。では、原因は何だったのだろう、そんな話になったのだ。しかし、原因自体は味を見れば分かった。しょっぱいのだから。そして、味付けをやった人間は秀一郎だった。簡単なことだ。
 しかし根が素直な大介は、秀一郎に調理のずさんさを指摘されると自分が悪いような気がしてしまったのだ。はたと、自分は味付けしてないじゃんと気がついたのは放課後だった。そしてお前が悪いと言い返したのだが、またも丸め込まれた次第だった。
「お前味付けしてないんだから、考えなくてもわかるだろ?」
「だってぐちゃぐちゃ言われるとなんとなくそんな気がしてきてよぉ……」
「ぐちゃぐちゃとは心外だ。僕は理路整然と話している」
「もういいから……」
 大体彼らはそんな感じだった。
 真ん中を歩くのが、遠樹和久。前髪はきちんと整えられていて、まあどこにでもいそうな印象の少年だった。左が石谷大介。一番背が高いし、流行を取り入れた寝癖仕立ての髪もしているのに、この中では一番立場が弱かった。押しが弱いのだ。そして押しだけで言えば杉森秀一郎が一番強かった。一番背が小さく、この3人の中では一番年下なのではないかと思われるほどまだ幼さが残っているが、しかし口調といい毅然とした態度といい第一印象とはまったく違っていた。全員あかつき高校の2年なので年は同じである。
「そういえば、和久んとこの鞠絵ちゃん元気?」
 話題を振ってきた大介に、和久は肩をくすめた。
「まあ、それなりかな」
「芳しくなかったらもっと心配してるよ、和久は」
 秀一郎は涼やかに告げた。別に冷やかしているわけではなかった。和久は鞠絵の体調が芳しくなければ部活を休んで、鞠絵がダメだと言うので授業は全部出るが、すぐに家に駆けつけるのだ。朝鞠絵の体調が悪ければ遅刻ぎりぎりにやってくるし、夜悪ければほぼ完徹状態で学校にやってくる。やりすぎなくらいいいお兄ちゃんだった。
「たまにはお見舞いに行くのもいいかもな」
「そうしてくれると鞠絵も喜ぶよ」
 正直な感想を漏らした。体の弱い鞠絵はほとんど外に出ることができない。兄としては、できる限り元気を分けてやりたかった。
「だけど、手ぶらというわけにはいかないだろうな」
 秀一郎は肩をすくめた。急な話だ、都合よく持っていけるものなど思いつかなかった。
「別にいいさ。土産話が一つあるし」
 和久が大介に意味ありげな視線を投げると、大介は満面の笑みを浮かべた。
「ふっふっふっ、そうだったな。杉森秀一郎本日の汚点を鞠絵ちゃんにしゃべってやる!」
「大介、お前……」
 秀一郎はいまいましげに大介を睨んだが、当の大介はそんな視線など気にもせずスキップしていた。自分が優位に立つことが相当嬉しいらしい。明らかに自分が悪いことであることなど分かっているし、いまは和久も大介の味方になって自分をからかうのだろう。秀一郎は負けを甘受するしかなかった。それに、そこまでして自分のミスを取り消すまでもなかった。悔しくはあったが。
「待っててくれ鞠絵ちゃん。いま俺が大爆笑の話で病気を治してやるからな!」
「いつ殺そうか?」
 殺意を押さえきれない秀一郎だった。
 歩くこと20分少々、3人は和久の家の近くまでやってきた。
「いい所なんだけど、遠いのが難点なんだよな、和久のうち」
「鞠絵の療養にはこのくらいがちょうどいいんだよ」
 林が近くにある、ちょっと住宅街とは外れた場所にあるのが和久の家だった。そして林にあることに違和感の無い木目調のつくりになっていた。
「あそこ、鞠絵ちゃんの部屋だったな、和久?」
 異変にはじめに気がついたのは秀一郎だった。
「え……」
 そして和久が指差された場所を確認した瞬間だった。
 彼の視界には、光があった。鞠絵の部屋、2階の南部屋からこぼれる光。それは夕方だったからだろうか、周りのオレンジという色素をかき消すように純白をしていた。その光が、音もなくはじけた。
「なんだ!?」
 その言葉すら、光速の世界で純白に連れ去られた。
 すべてをかき消し、白い世界は広がっていった。
 果てなど無く、始まりすらをかき消しながら。


「へへへっ、頼み込んだ甲斐があったぜ、今日はシチューだ」
 進也はにへらと笑みを浮かべながら買い物袋をぶんぶんと振り回していた。先日そうやって帰ってきて中身がぐちゃぐちゃになっていたことなどすっかり忘れていた。まあ、それでも鞠絵はくすくすと笑ってちょっと注意するだけなのだからいいといえばいいのだが。
 進也は上機嫌になって家に帰ってきた。
 家は住宅街からは少し離れた場所にある、洋風の一戸建てだった。進也、鞠絵、和久、そして母親の4人暮らしである。父親は早くに他界しており、その蓄えと母親の稼ぎで今は生活している。鞠絵はせめて内職をと申し出て、和久や母親は止めたのだが、進也も協力するからということで了承された。ただ、飽きっぽい進也にはただただ縄跳びを作る作業は苦痛であったが、鞠絵のために頑張った。
 ただ看病されるのが本人にとって心の負担なら、手伝ってあげようと思った。早く元気になってほしかったから、すこしでも気を楽にさせてあげたかった。
 家の近くにはちょっとした林がある。正確には自分たちの庭ではないのだが、鞠絵は明るいうちはそこをよく散歩したりした。進也もはしゃいでついて行くこともあったが、如何せん鞠絵は朝が早いのでたまにしかできなかった。どれだけ願っても、早起きだけは苦手なままだった。
「たっだいまー」
 扉が壊れるのではないかと思うくらい勢いよく玄関に駆け込み、進也は台所に入った。まだ母親は帰ってきていないらしい。まあ、ほとんど母親の稼ぎだけで生活しているのだ、帰りが遅いのは仕方が無いと分かっている。それでも、誰もいない台所は寂しかった。夕日だけがその場所を包み、遠くへ連れ去ってしまうような気がする。しかし、今の彼にそんな感慨はなさそうだった。
「おっし、鞠絵姉ちゃんのとこにいってこよ」
 買い物袋を、中身の強度など気にせずに放り投げて進也は階段を駆け上がっていった。やはり、先日も同じようなことをして怒られたことなど気にしていなかった。
 しかし恐らく、それは今回に限り正しいことだったのかもしれない。
 この始まりを信じるなど、まだ進也にはできていない。
「姉ちゃん、ただい……」
 彼の言葉は、勢いを失って消えた。
 いつものように開いた扉が壁に跳ね返り大きな音を立てる。
 その音も、今は咎める者も無く部屋に広がり消えていった。
「な、なんだぁ?」
 進也の視界を埋め尽くしたのは光だった。しかし、それは進也の知る限りでは光の性質を超えていた。それは小さな竜のようにうねりながら部屋中に何十匹も漂っていたのだから。進也は鞠絵の姿を探し、しかしそんなことなどすぐに無駄だと知った。
「姉ちゃん!!」
 光の奔流の中心、鞠絵のベッドにはその光の竜が稀代の宝石でも守るかのごとく取り囲んでいた。
 進也はそこから一旦目をそらした。眩しい光に目が耐え切れなくなった。
 けれど、そんなことをした瞬間に鞠絵が食べられてしまうかもしれない、進也はすぐに鞠絵の方に眼光を向けると駆け出した。
「鞠絵姉ちゃん!」
 駆け出した瞬間に、光の竜は進也のことを敵とでも見なしたのだろうか、部屋中の竜たちは鞠絵のものとに殺到した。進也の体に震えが走った。敵わない、逃げろ、心がそう叫ぶ。しかし、そんな声を進也は無視した。いまさら足を止める勇気も無かった。
「姉ちゃん!」
 進也の手が伸びて、鞠絵を囲む竜の背に触れた。
 瞬間、力のベクトルが進也を突き抜けた。走ってきた勢いをそのまま返されたかのように進也の体は吹き飛んだ。それを追い、一瞬も無いうちに光の奔流は彼を抜き去っていった。
 そんなことを理解することもなく、進也の意識は遠のいていった。
 ──姉ちゃん。
 かすかに、鞠絵の笑い声が聞こえたような気がした。
 光の奔流は、部屋を飛び出していった。
 世界を白く塗り替えるために。


 そこにいるとは、どういうことなのだろう。
 それだけでは、何の意味もないのだろうか?


「進也、気がついたか?」
 おぼろげながら、それが兄の声であることは分かった。
 けれど、いまはそれを積極的に理解するほどの力が彼には無かった。
「母さんに言ってくるから、おとなしくしてろよ」
 兄はそういうと進也の言葉など聞かずに出て行ってしまった。扉が開く音でなんとなくそれを知る。
「じゃあ千影、しばらく頼むよ」
 聞きなれない言葉が、兄の口から発せられた。しかし、すぐにそれが何なのか疑問に思うことは無かった。誰かいるのだろう、それくらいにしか。
「……起きないのかい?」
 ぞっとする声が部屋の空気を凍らせた。進也も一気に目を覚ました。ばっと布団を跳ね上げると、自分の部屋に見慣れない少女がいるのを知った。
 誰なのだろう、進也はその少女に見覚えは無かった。黒を基調にしたスーツのようなものに真っ白なマンとを羽織っていた。後ろ髪をまとめ、そこから何本か髪の毛がまとまってはみ出していた。その表情は、冷たかった。同じ人間なのか疑いたくなるくらいに白い。
 少女は椅子に腰掛け、器用にリンゴをむいていた。
「お前、誰だよ」
 警戒心を露わにし、しかし進也はベッドから動けない自分に戸惑っていた。
 怖い……。
 叫びだしたい衝動すらこみ上げてくる。よく分からない。一体何なんだ。何が自分をここまで震え上がらせるのだろう。
「姉に対して……ずいぶんと失礼な言い方だね………」
「姉……」
 そして進也はようやくここに至るまでの出来事を思い出した。
「そうだ、鞠絵姉ちゃんはどうしたんだよ!!」
「それはもう…………意味の無い言葉だよ……」
 進也には少女の言葉など理解できなかった。
 意味の無い……。
 ここには、いない……?
「具合が悪くなって病院に行ったんだろ、脅かしたってそうはいかないぞ」
 あの景色、それが脳裏から突然噴き出した。光がたむろし、その中に確かに鞠絵はいた。進也はその目で確かに見たのだ、幻だったなんて思わない。かといって、あの光が幻でないかと言われたら、幻であってほしいと思っているのだが。
「だから言っているだろう……鞠絵などと言う人間は存在しない……」
 苛立ちでもなく、哀れみを向けた瞳を少女は向けた。進也が救われない病気にかかってしまったような、そんな他人を見るような視線だった。
「何なんだよ、お前一体何なんだよ!?」
 訳も分からず、進也は叫ぶしかなかった。今すぐにでも駆け出して鞠絵を探しにいきたかった。部屋でいつものように本を読んでいる鞠絵を。そして、騒々しく扉を開ける自分を暖かく迎え入れてくれる鞠絵を。
 ……大好きな、鞠絵を。
「私は千影……君の姉だよ」
「嘘だ!!」
 そんな話は聞いたことが無い。進也は動かない自分の体を消してやりたかった。心だけでも鞠絵の元に飛んでいきたかった。この世界のどこかで、微笑んでいてくれるはずなのに。
「兄くんでも、母上でも…………好きなほうに聞けばいい。鞠絵などと言っても…………耳を貸さないだろうけどね」
「嘘だ、俺はお前なんか知らないんだ!!」
 千影はこれ以上言い聞かせるのも無駄だと思ったのだろう、小さくため息をつくと皮をむき終わったリンゴを放り投げた。
「……っ!!」
 進也は、驚きを声にすることもできなかった。
 何も見えなかった。そこに残った、均等に八つに切られたリンゴ以外。
「食べたまえ……疲れているんだろう?」
 そっと皿に乗ったリンゴを差し出す千影。一瞬、柔らかい微笑を浮かべたような気がした。思わず手を出そうとした進也は千影から視線をそらした。
「……そんな妖しいもん、くわねぇよ!!」
 進也は最後の意地でそうつっぱねると、ベットに伏せた。千影に背を向けるのは怖かったが、千影のほうを見るのはもっと恐ろしかった。結局、背を向けることにした。
 ──なんなんだよ、一体!?
 そんな疑問が解けるには、まだしばらくの時間を要した。


 何も判らなかった。
 進也はできる限りの事をした。小学生にできることなど高が知れていた。それでも懸命に調べ、それでも何も変わらなかった。
 この世から鞠絵と言う名の少女は消え去ってしまった。いや、はじめからいなかった。
 自分の姉は千影なのだと、その事実だけを突きつけられた。
「何でだよ……」
 自分だけが間違った記憶を持ってしまったのだろうか?
 兄でさえも、妹は千影だといっている。
 そんなはずはないのに……。
 家までの道をこんなに長く感じることはなかった。鞠絵のことを考えて帰る帰り道は楽しかった。なのに……。
「ずいぶんと……落ち込んでいるね…」
 進也はその声に身構えた。
 いつのまにか、落ち込んでいる元凶が隣を並んで歩いていた。
「誰のせいだと思ってるんだよ!!」
「さてね……」
 進也の罵倒を千影は軽く流した。
「泣くのは…………男らしくないね……」
 とっさに何も言い返せなかった。分かっている、自分の力のなさに腹が立っていることくらい。
「泣いてなんかねぇよ!」
 それでも進也には虚勢を張るのが精一杯だった。
 泣き叫べればどれだけ楽だろう。
 赤くなった瞳をこすり、進也は自分を抑えつづけた。
「絶対に鞠絵姉ちゃんを取り戻してみせるからな!」
 これ以上千影の側にはいたくなかった。進也が走り出すのを、千影は見つめていた。儚い、微笑みで。
「君はそれでいいんだよ………その想いのままで」
 夕日が辺りを紅く染めていた。
 風が凪ぎ、景色を揺らしていく。
 物語は始まった。ページが1つめくられるように、ゆっくりと。




 あとがき
 ついに新シリーズ始動!
 っていうかその前にいろいろやっておくべきことがあったような気がするのですが……。
 きっと完結するのは次の春です。秋とか言っておきながら。
 まあ、またしばらくCageを書くのでほったらかしなんでしょうけどね。
 それでは第2話「終わりなどない」をご期待ください。


葉坂沙希也さんへの感想はこちら
hasakasakiya@hotmail.com
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