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果てのない空の下

作 葉坂沙希也さん


 これは、その可能性のうちの一つなのだろう。
 過酷な運命を……。
 悲しい結末を……。
 青年を揺さぶった運命はまた別の場所にあり──
 少女を動かした結末もまた別の場所にあり──
 それでもこうやって、どこまでも青い空の下で、その音色は輝いた。
 似通った話はいくつもあるのだろう、これはそんなお話。


 割と狭い部屋だった。
 その空間に広がるのは、幾つも連なった音のつぶて。
 柔らかく、黒と白の鍵盤の上に青年の両手が舞っていた。
 その両手から音が紡ぎ出されているような錯覚さえ覚える。
 緩やかに、時間さえも支配するかのように空気が震えた。
 やがて、その音も収束に向かっていく。
 最後の鍵盤が叩かれた。
 空間から、音が消える。
 その美しい静寂は、やがて観客の拍手によって消えていく。
「いつ聞いても、アニキのピアノってかっこいいよねぇ」
 少女の賞賛を、ピアノに向かっていた青年は照れくさそうに受けた。部屋には小さなピアノと、その隣にはヘッドホンをつければ音の漏れないキーボードがあった。そしてキーボードの下には小さなダンボール箱が置いてあった。それだけで手狭に感じてしまうが、何とか観客二人が入るスペースはあった。
「僕なんか、まだまだだよ」
「えー、でもこの間おっきな大会で優勝したんでしょ?」
 少女の隣の、もう一人観客。二人とも、ショートカットの似合う少女だった。
「まあ、あれはたまたまだよ。一樹がミスったから、繰上げみたいなものだよ」
 そう言って青年は友人の名前を挙げた。共にピアノを志す仲間だった。
「もう、あにぃったら謙遜しちゃってさ。それも実力のうちだよ」
 そんなことを言われるとまんざらでもないのか、それでも困ったような微笑みを浮かべて青年は答えた。
「まあ、そうなのかもね……」
「ひろ君、いる?」
 部屋にノックの音が響いた。そして扉が開き、外からちょこんと顔を出したのはまだずいぶん若いように見える女性だった。
「母さん、どうしたの?」
 こんな大きな息子がいるのかと、もしかしたら人によっては驚くのかもしれない。そんなことはお構いなしに、その母親らしき人物は笑顔で答えた。
「クッキー焼いたんだけど、食べない?」
「わーい、食べる食べる」
 問いかけられた青年よりも先に、頭にゴーグルをかけた少女が立ち上がりながら答えた。
「え、鈴凛ちゃんの分なんてないわよ?」
 きっぱりと真顔で言い放つ母親に、鈴凛と呼ばれた少女は不満顔を向ける。
「えー、アニキの分があるなら私の分もあるんでしょ?」
「まあ、衛ちゃんの分はあるけど」
 さらに真顔で答える。鈴凛の顔はどんどん怒り混じりになってきた。
「どーして衛の分があって私の分がないのよっ!?」
「あーそうそう、花穂ちゃんとはー君の分も用意しておかないと」
「ひっどーい、アニキ、何とか言ってやってよ」
 どれだけ言ってもとぼける母親から、鈴凛は青年の方に矛先を向けた。青年はいつものことだと内心思っていた。からかうだけからかって、あとは知らん振りをするのが母親のいつもの行動なのだ。それでも、ときどきからかったその内容を忠実に実行してしまうときもあるので油断ならないのだが。
「どうせ用意してあるんでしょ?」
 とりあえず聞いてみる。案の定、母親はこう答えた。
「当たり前でしょ」
 あっさりと。
 そしてそれを聞いてずっこける鈴凛。
「鈴凛ちゃん、吉本ばりのこけっぷりね」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
「さぁ、春の陽気のせいかしら?」
 鈴凛の非難を聞き流し、母親は扉の向こうに消えた。
「とりあえず、食べにいかない?」
 今まで黙っていたもう一人の少女、衛が遠慮がちに切り出した。
 青年はふっと微笑みを浮かべた。
「そうだね……あ、鈴凛は来なくてもいいよ、ないんだから」
「アニキまで、ひっどーい」
 振り回された腕から逃げるように、青年は扉に向かって歩いていった。
 うららかな春の日差しが刺す部屋に、笑い声が重なっていく。
 青年の名前は水井秋弘……つまりは、そういうことだ。

「そう言えば、花穂は?」
 鈴凛が尋ねると、クッキーを入れた皿を運んでいた母親、夏絵はちょっと考え込んでから、
「まだ部活じゃないかしら、ちょっと帰りが遅いような気もするけど」
 そして皿を置いて今度は紅茶を入れる準備を始めた。
 今は午後3時過ぎ、花穂は午前中から部活に行っている、そろそろ帰ってきてもいい時間帯だった。
「で、兄さんはどうしたの?」
 今度は秋弘が尋ねる。夏絵は首をひねった。
「確かちょっと前に出かけてったわよ、カメラ持って」
「……今日、仕事なかったんじゃないの?」
「気が向いたんでしょ」
 秋弘達の兄、春樹は写真家だった。メインは風景だが、それ以外にも既存のジャンルに捕われない彼の写真はなかなか好評だった。
「気楽よねぇ、写真とってるだけでお金が入ってくるんだよ」
 ソファーでくつろいでテレビを眺めている鈴凛がうわごとのように呟いた。
「ならお前も撮ってみるか?」
 少なくとも秋弘の声ではない、男性の声だった。
「ア、アニキ……お帰りなさい」
 いつのまにか、玄関に通じる扉の向こうには背の高い男性が立っていた。鈴凛がびっくりしながら振り返る。彼の口調は冷たかった、かといって怒っているのではなかったが、それを感じるにはかなり微妙なニュアンスを読み取らなくてはならなかった。
「案外、俺よりもいいものが撮れるかもしれないしな」
「そんなこと言って、この前私が撮った写真ボロクソに言ったくせに」
「ピンぼけ写真を褒めるほど、俺は人格者じゃないんでな」
 いつものように苦笑を浮かべていた。そこに、紅茶セットを用意した夏絵がやってくる。
「あらは―君、お帰りなさい」
「ああ」
 春樹は簡単にそう答える。いつものことではあった。
「花穂ちゃん見なかった、そろそろ部活から帰ってくる頃だと思うんだけど?」
 そう尋ねると、春樹は首をひねった。
「帰ってきてないのか……見なかったな」
「そう、まあ友達とどこかに寄ってるだけかもしれないし、そんなに心配しなくてもいいと思うけどね」
 春樹はかすかに頷くと自分の部屋がある2階へと戻っていた。
 それを見送った夏絵が、テレビを見ているのかいないのか、ボーとして椅子に腰掛けている秋弘の隣に腰掛けた。
「ひろ君、ボケっとしちゃって、どうかしたの?」
「え、ちょっと寝不足で……」
 突然話しかけられた秋弘は体をびくっと強張らせた。そんなとっさの言い分を、夏絵は事情を知っているのか単に母親としてなのか、柔らかな微笑みで聞いていた。
「無理しちゃダメよ。ひろ君はときどき、人のために頑張りすぎるから」
 ちょっと思案げな顔をして、秋弘は頭をかいた。
「そう、かもね……」
「でも、それがあにぃのいいところだよね」
「そうそう」
 そんな衛の言葉に、鈴凛も頷いた。
 それを聞いた秋弘は、春樹のように少し苦笑してため息をついた。
「長所になるのかな……こういうの」
 ただの特徴で、長所でも短所でもないような気がする、それが秋弘の考えだった。
 それでも、彼の兄はこう言うのだろう。
 ──安心しろ、お前は筋金入りのお人好しだよ。
 何をどう安心していいのか分からないのだが、それが春樹の春樹らしさだった。

「ただいまぁ」
 そして、花穂が帰ってきたのはいくら春になって日が落ちるのが遅くなったとはいえ、少々暗くなってきた5時半くらいであった。
「花穂ちゃん、どこ行ってたの。遅れるならちゃんと連絡くらい入れなさいよ」
 花穂の声を聞きつけ、真っ先に玄関に走ってきた夏絵は花穂を見るなりそう叱りつけた。
「ごめんなさい……練習が長引いちゃって」
 靴を脱ぎながら、花穂は夏絵に頭を下げた。それを見て微笑む夏絵は、指で上をさした。
「はー君が心配してるわよ。流石にそんな素振りは見せてないけどね」
 あれから春樹は部屋から出ていない。それが夏絵の勝手な想像だった。しかし大方外れてもいないのが、母親としての貫禄という奴だろう。
「それはそれは心配してたわよ。花穂はいねぇーかぁって包丁持ちながら」
「母さん、嘘はよくないよ……」
 たまたま通りがかった秋弘が、まあ花穂が帰ってきたら晩ご飯ということになっていたからたまたまでもないのだが、呆れ顔で呟く。
 夏絵はきっと秋弘の方を睨んだ。
「ひろ君、そんな気のないツッコミは却下よ」
「いや、気の問題じゃないと思うんだけど」
「お前のボケを却下した方が早いと思うが」
 いつのまにか降りてきていた春樹が、秋弘の後ろから夏絵を見下ろしていた。
「ひ、酷い。どうして誰も『それなまはげやろ』って熱いツッコミを入れてくれないの!?」
「いや、そんなこと期待されても」
 秋弘の呆れ顔はますます深まった。
「どうでもいいが、飯にしろ」
 春樹は春樹で苦笑しながら、とっととリビングに入っていった。
「もう、ひろ君とはー君の晩御飯にたっぷりにんじんを入れておくから覚悟しなさいよ!!」
 夏絵が地団駄を踏みながら叫びをあげる。その場にいた秋弘は思わず顔を引きつらせた。
「え………それはやだなぁ」
 実は兄弟そろってにんじん嫌いである事実はあまり知られていなかった。にんじんを食べられるのは5人の中では鈴凛と衛だけだったりする。
 まあ、どうでもよいことではあったが。

 同時にあくびをする。そんな晩飯時。
「アニキ、大丈夫?」
「花穂、寝てないのか?」
 そして同時に二人を案じる声がする。
「まあ、ちょっとね」
「うん、花穂もちょっと……」
 同じ言い訳をして、同じように苦笑いを浮かべるのは秋弘と花穂だった。そしてまた、同じようにあくびをした。
「でも、なんか最近あにぃも花穂ちゃんも寝不足だよね」
 衛が追求をするが、二人はそれ以上答えようとはしなかった。と、突然感極まった声をあげて夏絵が椅子から立ち上がった。
「そんな、お母さんに黙って禁断の恋に落ちてるのね!?」
「いや、それはないし」
 あっさりと否定する秋弘。大体、そんなことをしたら春樹に殺される……少なくとも秋弘はそう思っていた。それを言ってもいびられることは容易に予想できはしたが。
 水井家は5人兄妹、上から春樹、秋弘、鈴凛、衛、花穂。
 鈴凛と衛は秋弘の方が好きで、花穂は春樹のことが好きだった。鈴凛は春樹のことが苦手だったりする、衛はそれほどでもなかったが。
 逆に兄の方も、秋弘はそんな鈴凛や衛のことを妹としてなんだかんだいって面倒を見ていた。春樹はそんな花穂に対してそっけないが、他の誰よりも気にかけていた。それを読み取るには彼とある程度親密でなければ分からないのだろうけれど。
 まあ、そんな事情はさておき、夏絵は続けて尋問した。
「じゃあどうして二人して寝不足なの。お母さんこう見えても心は1ヘクタールくらい広いのよ、ちゃんと事情を説明して」
「いや、また微妙な広さだね」
 一人熱っぽく語る夏絵についていけず、秋弘は呆れ顔を浮かべるよりなかった。まあ夏絵のテンションはいつもこんな感じなので、鈴凛や衛などは無視して食事を進めていた。まあ話の内容には興味津々といった感じだったが。
 花穂は眠そうにしながらも話の成り行きにドキドキして見守っていた。春樹は一瞬花穂の方を見ただけで、鈴凛たちと同じように何事もなかったように食事を進めていた。
「別に僕は、ピアノの練習をしてるだけだよ。いま新しい曲を練習中だからちょっと時間がかかってるだけだよ」
「ふーん、じゃあ花穂ちゃんは?」
「えっと、花穂はね、お部屋でチアの振り付けの練習をしてるの」
 その質問は予想していたのか、花穂は割とすらすらと答えた。
 その回答に、夏絵は納得したのかしていないのか頷いて話を切り上げた。
「ふーん、まあそういうことにしておいてあげるわね」
「いや、そういうことじゃなくて、そうなんだけど」
 秋弘が口を出すが、夏絵はもうその話は終わったと思っているのか相手にはしなかった。
「花穂、その手はどうした?」
 と、今まで黙っていた春樹が口を開いた。
「え、ちょっとチアで転んじゃって」
 花穂の手にはいくつかテープが巻かれていた。花穂はおどおどしながらもそう答える。
「……そうか、気をつけろよ」
「うん、ありがとうお兄ちゃま」
 その話題も、そんな感じで切り上げられた。

 翌日、4月3日。
 春樹は予定以上に早く目が覚めてしまっていた。
 仕事のために家を6時には出なければならなかったのだが、目覚めたのは4時半だった。二度寝してしまうと恐らく遅れてしまうだろう、少々癪だったが起きることにした。
 顔でも洗おうと部屋を出る。すると、同じ2階にあるピアノ室に花穂が入っていくのが見えた。
「…………」
 花穂がピアノ室に入る理由が思い当たらない。春樹はかすかに眉根をひそめた。
 ピアノ室はほとんど秋弘の第2部屋になっていた。そこに入るのも、秋弘のピアノを聞きに行く鈴凛と衛くらいだ。春樹は花穂がピアノを弾く場面などほとんど見たこともない。一度、花穂がピアノを弾いてみたいと言っていたが、すぐに小指が引きつりそうになったのでやめさせた。
 そして、前々から気になっていた花穂の寝不足。そして秋弘も同時に寝不足であるという事実。
「まさかな……」
 寝起きで回らない頭で深く考えるのはやめにして、とりあえず顔を洗いに春樹は階段を降りた。
 洗面所で顔を洗い、春樹は誰もいないリビングに入ると、とりあえずテレビをつけた。こんな時間のテレビ番組に期待はしていない。ただ雑音があればそれでよかった。静かすぎるのは逆に思考を妨げる。
 花穂がピアノを弾く理由は思い当たらなかった。それにどう考えても花穂はピアノ向きではない。
 春樹には写真、秋弘にはピアノ、鈴凛には機械、衛には運動……それぞれが何かしら得意分野を持っていた、花穂を除いて。花を育てることが得意分野に入るのかどうかは微妙なところだった。チアでも何でもなかなか上達しない、しかしそれを何とか克服しようとする向上心は彼女の美点なのかもしれない。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。
 花穂が秋弘にピアノを習っているという可能性も確かにある。しかし、それなら別にこんな早朝にやる必要があるとは思えない。仮に寝不足になってまで練習をしているのなら、よほどそれは急を要しているのだろう。
「まったく……」
 一体自分はどんな可能性を思い浮かべているのだろう。春樹は嫌気すら感じながら、そんな気分を払拭するためにコーヒーを飲む準備を始めた。まだ少々眠いのもあったが。
 兄妹の個室は少々特異な状況だった。
 2階には8畳の部屋が3つと4畳の部屋が2つあった。ピアノ室は4畳の部屋にある。そしてもう一つの4畳の部屋が秋弘の部屋だった。ピアノが置きたいから狭い部屋でいい、彼にしては珍しく譲らなかった。別に8畳の部屋に住んでピアノも置けばいいだろうと言ったのだが、それでは誰かが4畳の部屋に住まなくてはいけないからと秋弘は断った。どうしても彼は自分を犠牲にしてしまうらしい。
 残り3室。春樹と鈴凛が1部屋ずつもらい、衛と花穂は相部屋になっていた。別段仲が悪いわけでもないし、4畳の個室よりは8畳の相部屋の方が広々していていいということで何とか折り合いをつけた。
 そう、花穂には個室がないのだ。
 ──そう言えば、最近花穂が話し掛けてこないな。
 仕事で会わないことが多いとはいえ、それなりに会話をしているつもりだった。もっとも、花穂がいつも自分を探して話を持ってくるといった感じだった。だから、花穂が話し掛けてこないと会話がないというのも当然といえば当然だった。
 インスタントのコーヒーなのでお湯を注ぐだけだった。砂糖をほんの少し入れ、かき混ぜる。花穂ならもっと多く入れないと飲めないだろう。
「まったく……」
 どうしてそこで花穂のことが頭に浮かぶのだろう。
 別に花穂が秋弘のことを好きになったとしても大したことではない、そう願う。
 コーヒーは案外苦かった。
 目の前の通販番組が気に入らず、春樹はパチパチとテレビのチャンネルを変える。しかし、こんな時間に何もやっていないのは分かっていた。しかたなく延々と同じニュースを繰り返す番組にした。
 ピアノ室に秋弘がいると限ったわけではない。しかし秋弘が寝不足な理由はやはりピアノしか考えられなかった。他の理由で寝不足になるとはあまり思えない。まあ今日花穂が入ったこともいつもかどうかも分からない。入ったのを確認しただけでたまたま忘れ物があっただけなのかもしれない、そんな可能性は皆無だと春樹は感じていたが。
「俺らしくないな……」
 こちらから花穂を見捨てることはない、そんな理由はない。だが、花穂から自分を見捨てるときが来たとしても、それは仕方のないことだ。自分に、花穂が慕うほどのものがあるとは思っていない。だから、花穂が自分のことを相手しなくなっても、花穂を責めるいわれはない。それほどのものを、自分は花穂には与えていないのだから。逆は、どうなのだろう。
 ──俺の、なけなしの人らしさは、花穂がくれたものだ。
 少なくとも、そう思っている。
 感傷とも情緒とも、自分は縁遠い場所にいると自覚している。他人の行動に感動も悲しみもなにも覚えないくらいに、自分の心は凍てついている、そのはずだったのだから。それを解かしたのは、花穂の純粋さだろう。
「あら、早いのねはー君」
 と、思考の波をかきわける声。
「言わなかったか、今日は仕事で早いと」
「言ってたかもしれないけど、私は覚えてないから言ってない方に決定♪」
「勝手に事実を曲げるな」
 いつものような会話。それでよかった。
 時計を見ると、いつのまにか針は5時をさしていた。
「はー君ってば、朝からテンション低いのね」
 夏絵が春樹の顔を覗き込む。春樹は煙たそうにしてコーヒーカップの方に視線を落とした。
「むしろお前のテンションがいつ下がるのかが気になるが」
「まぐろって泳がないと死んじゃうのよ」
「……迷言として記憶しておいてやる」
 要するに年中ハイテンションということだ。彼女の息子をやって早25年、というか10年も要さずに悟っていたことではあったが。それが、どう若く計算しても40代前半の彼女が若く見える秘訣であるのかもしれなかった。
 ──部屋でチアの練習、か。
 昨日の花穂の言葉を思い出す。あれだけ戸惑いもなく言えたのだから、本当のことなのかそれともずいぶん前から考えていた言い訳なのかどちらかなのだろう。それでも、衛と相部屋である以上徹夜や早朝に自分の部屋で練習をするわけにもいかない。だとすれば、自分の部屋ではないのかもしれない。確かに花穂は部屋とは言ったが自分の部屋とは言っていない。
 秋弘にピアノ室を借りて練習をしている、それが現実的な線だった。
 しかし、あの部屋は狭い。チアの練習など果たしてできるのだろうか。大きな動きはできなくても手足の動きくらいはできるかもしれない。しかしそれでも狭いだろう。あの部屋はせいぜい3人くらいまでしか入れないような部屋なのだ。まだリビングの方が練習になる。1階で寝ている夏絵や父親の冬次を気遣ってのことかもしれないが、だとすれば隣で練習される秋弘にも迷惑だろう。花穂がそれに気がつかずに練習していて秋弘が寝不足というオチもありえない話ではないが。ちなみに冬次は今は昔の友人と旅行に出かけている。
 ──どれもしっくりこないな。
 どう考えても何かが引っ掛かる。そんなジレンマから抜け出せないでいた。
「はー君、トースト焼けたわよ」
 そして母親の声。
 春樹は考えるのをやめると目の前に差し出されたトーストに目を落とした。
「すまないな」
 そんな言葉を告げた春樹を、夏絵は物珍しそうに見つめ、やがて感極まった声をあげた。
「は、はー君が、お礼を!?」
「そんなに稀だったか?」
 どうでもよいが、あまりさわやかではない朝だった。

「お母さん……お兄ちゃまは?」
 その日の朝食、部活に行く花穂はすでに起きて準備をしていた夏絵に尋ねた。ちなみに鈴凛はいつものように徹夜で現在睡眠中、秋弘と衛はいっしょにマラソンに行っていた。ただ、秋弘に衛と同じペースで走れるほどの体力はなかったが。
「はー君は今日はお仕事よ。明日の夕方にならないと帰ってこれないんだって」
「えー、そうなんだ……」
 がっくりと肩を落とした花穂に、夏絵は微笑みかけた。
「大丈夫よ、明日中には必ず帰ってくるから。もし帰ってこなかったら、お母さんとっておきのアレで帰らせるから」
「……アレって、何?」
 花穂が恐る恐る聞くが、夏絵の微笑みは崩れなかった。むしろかすかに混じる凶悪な感情。
「アレは、アレよ」
 回答になっていない回答を返してくる。
 花穂はこれ以上聞いても無駄と悟ったのか、それとも内容を聞くのが怖くなったのかそれ以上追求することはなかった。
 とりあえず当面の目標であるトーストを食べる。食べるのがただでさえ遅いのだから、早く食べないと部活に遅刻してしまう。ちなみに明日は部活は休みだった。
「ただいまぁ」
 と、衛の声がリビングにまで響いた。マラソンから帰ってきたのだろう。
「あれ、花穂、部活大丈夫?」
 へとへとになりながらも、リビングに入ってきた秋弘が時計と花穂を見比べて尋ねた。
「えっ……もうこんな時間!」
 いつのまにか時間は過ぎてしまうものだった。とりあえず食べられる分だけのトーストをちぎって口に放り込むと、花穂は慌てて玄関に走り出した。
「花穂、あんまり慌てると──」
 そう言おうとした瞬間、秋弘の目の前で花穂は足をもつれさせた。
「おっと」
 あやうく床に激突しそうになった花穂を、秋弘はすんでのところで腕をつかんで助けた……はずだった。
「あ……」
 しかし寝不足で、しかも衛と走ってきたばかりで体力など残っていない秋弘にそれだけの力など残っていなかった。床に足を滑らせ、花穂と一緒に倒れこんでしまう。
「……痛い」
「お、お兄ちゃま大丈夫!?」
「まあ、一応……」
 花穂は途中で動きを弱められているからそんなに痛みを感じることはなかった。しかし秋弘の場合は後頭部からしたたか頭を打ったのでダメージはそれなりに酷かった。
 花穂は膝立ちをして秋弘の顔を覗き込む。そしてそこに衛や夏絵も駆け込んできた。
「あにぃ、大丈夫」
「いやぁぁぁぁ、ひろ君、死んじゃいやぁぁぁぁ」
「いや、今返事してるし」
「そんなこと分からないわよ、死霊がひろ君にとり憑いてそれらしくしゃべってるだけかもしれないじゃない! ひろ君の真似なんて容易にできるわよ」
「そんな風に思ってる相手と普通に会話してる時点で間違ってる気がするんだけど、あと僕ってそんなに個性ない?」
「死霊の分際で口答えするなんて……」
「いや、だからさ……」
 とりあえずいろんな意味で頭を押さえながら、秋弘は立ち上がった。
「僕は大丈夫だから、花穂は部活に行きなよ」
「あ、そうだった……お兄ちゃま、ごめんね」
 頭を下げて、花穂は慌ててリビングを出て行く。階段をどたどたと駆け下りる音が響く頃には、秋弘の頭の痛みも引いていた。
「はぁ、僕って力ないなぁ」
 ため息とあくびとが混じったような、そんな素振りをする秋弘。
「ひろ君、ご飯どうするの?」
 夏絵はさっきまで死霊だとか何とか言っていたとは思えない、まったく普通の態度で接してきた。ちなみに衛は元気にトーストをかじっていた。さっきまで一緒に走っていたのに疲れている様子は見られない。こうまで体力差を見せ付けられると、男として少々情けなかったりする。
「2時間くらい寝るよ……ピアノのレッスンがあるから起こして」
「ん、分かったわ」
 困った母親ではあるが、愛情が欠けているわけではない。常々そう思っているのに、どうも感謝しようとかそんな気持ちにさせないのは、やはり彼女らしさなのだろう。
「明日が楽しみね……」
 誰にも聞こえないように、夏絵は呟いた。
 それは青年にとってはどうでもいい日なのかもしれない。しかし、彼女達にとっては特別な日。
 つまりすべては……そういうことだった。

 その翌日、4月4日。
 夕方、アレの必要もなく春樹は帰路についていた。
 ──まったく。
 もうすぐ家に着く、そんな道のりで春樹は昨日今日の仕事を振り返っていた。
 正直に言えばあまり仕事が手につかなかった。アシスタントに『今日はため息ばかりですね』などと言われてしまう時点でそれは分かった。
 それは仕方ないこと、それだけで納得できるはずだった事態を……いつまでも引きずっていた。もちろん、ただの誤解という可能性の方が高いだろう。しかし、春樹は可能性が高いというだけで納得はできなかった。どう考えても、秋弘と花穂の寝不足の理由は嘘だ。花穂に寝不足になるまでチアの練習をする場所はない。秋弘は秋弘で、花穂があのピアノ室を使っているのなら狭くて練習にもならないだろう。だいたい、そこまで必死にならなければならないほど秋弘に時間がないとも思えないし、近く大会があるとも聞いていない。
 それでも、どうせ事態は何でもないのだ、こんな心配は杞憂に終わる。そう思い込めばそれで終わるのだ。
 ──どうして、そんな簡単なことができないんだろうな。
 自分自身に戸惑いすら感じる。
 何の代償の払っていないのだから、花穂の気持ちが離れていっても仕方ないのないこと。
 何の努力もしていないのだから、それは仕方ないことなのだ。
「簡単なことだ……」
 気持ちとは裏腹な言葉を紡ぐ。そうしなければ収まらなかった。
 そして家が見える。
 玄関までやってきたが、春樹はその扉を開けることに戸惑わなかった。いくら内面でもがいていようと、それを表面に出すことはない。彼はいつも、理性で動いているのだから。
「お兄ちゃま、お誕生日おめでとう!!」
 ぱぱぱぱーん
 扉の向こうには理解できない光景があった。
 けたたましい音を立てるクラッカーと、それを持って春樹を出迎える家族達。
「……誕生日?」
 初めて聞くような、そんな呟きをしながら春樹は自分に降りかかったクラッカーの紙切れを払った。
 4月4日、それは春樹の誕生日だった。
 けれど、春樹には自分の誕生日などどうでもよかった。少なくとも、誕生日は自分がここまで生きてきたことに感謝する日であっても、他の人から祝われる日ではない。それが彼の認識だったから。
 仕事の都合上、春休み中の誕生日でも春樹は家にいないことが多かった。だからこうやって祝われることも少なかったし、学生時代でも知り合ったころにはすでに誕生日は済んでいるので祝ってもらうということもなかった。
 故に誕生日など、彼の意識下にはほとんどなかった。
 ──だから、か。
 天井を見ると紙飾りがとりつけてあった、リビングに入っても同じようになっているのだろう。これを準備していたのだ、寝不足になってまで。
 一瞬呆気にとられていた春樹だったが、その一瞬で大体の事態を理解した。そして、またいつものように振舞う。
「こんなに派手に祝わなくていい」
 柔らかい苦笑を浮かべ春樹は靴を脱ぐと、満面の笑みを浮かべる花穂の頭に手のひらを乗せた。
「とりたてて意味のない、平日だ」
「そんなことないよ」
 春樹を見上げる花穂に、何の迷いも曇りもなかった。
「だって、お兄ちゃまが生まれた日だもん」
 春樹は軽く瞳を閉じた。これが簡単に花穂の視線から逃げられ、そして覚悟も決められる。
 すぐに、春樹は目を開けた。しっかりと、花穂と視線を合わせて。
「そうだな」
 そして春樹は花穂の手をとった。そしてリビングに引っ張っていく。
「せいぜい俺を祝ってくれ」
 リビングも、綺麗に飾り付けてあった。ここまでされることに戸惑いを感じても、今は素直に感謝することにした。
 青年が馬鹿騒ぎするということはないけれど、始終明るい笑顔で時を過ごしていた。
 まあ、それはそれでよくある話だった。              (終わり)


 あとがき……ってか弁明

 いくらトーナメントのためとはいえ、やってしまいました。
 とりあえず世界観を説明しておくと、タイトルは和訳したのをちょっと変えただけで、僕のHPで連載していた「Everlasting
Sky」というシリーズの外伝的なものです。
 シスパラに投稿する以上1本の話として独立していなければいけないのかなぁと思い、登場キャラだけ使ったアナザーな世界になってしまいました。分かる人には分かるし、分からない人にはまあそれなりに楽しめていただけたら幸い。ってか分からない人には春樹の気持ちは分かりにくいのかもしれません……はぅ。
 ってか夏絵さんSSな感じになっていないでもない。「Everlasting
Sky」の短編は、困ったときは夏絵さんなので。ってか、春樹があまり目立ってない。どーなんだろう。
 って感じなのでもう一本書くかもしれません、シリーズ化しても面白いかもしれませんが、そんな余力はなさげ。とりあえず今度はお隣の紅矢さん一家を巻き込んで……うわ、ますます出番がなくなるんじゃ……。また変な母親を出そうかなぁとか無駄な方向にやる気です。


『おまけ』

 花穂はすべての準備を一人でした。ある程度手伝ってもらったが、それでも花穂がほとんどの準備をこなしたのだった。ピアノ室を使っていたのも部活から帰ってきたのが遅れてきたのも全部この準備のためだったのだ。ピアノ室を使う関係で秋弘にはこのことを黙っていてほしいというお願いはして、口裏あわせもした。つまりは、そういうことだったのだ。
「花穂ね、頑張って料理もしたんだよ」
 と、春樹の前に差し出されたのは、ポテトサラダのようなものだった。
「……これは?」
 思わず聞いてしまう。春樹のなけなしの記憶からすると、ポテトサラダは普通白い。しかし、この淀んだ感じの黄色を呈しているものが、ポテトサラダのはずがなかった。
「ポテトサラダだよ」
 しかし、どうやらポテトサラダらしい。
 春樹は苦笑して、覚悟を決めた。
 一口食べればいいのだ。他のSSの兄のように、笑顔で無理してすべて平らげる必要が春樹にはない。
 そして、ゆっくりと箸でそのポテトサラダ(仮称)をつかむと、口に運んだ。
「花穂……」
「なぁに?」
 期待と不安のまなざしで、花穂は春樹の顔をのぞいた。春樹の表情は苦笑のまま動いていない。ときどき花穂は、苦笑が春樹の標準の素顔なのではないかと疑ってしまうのだが、それは今は問題ではない。
「いもは何を使った」
「えっ、さつまいもだよ」
「………そうか」
 まあ、食べられないわけではなかったが。
「花穂、ポテトサラダに使うのは、ジャガイモだ」
「えー、だって花穂お母さんにこれでいいのって聞いたら、お母さんがバッチリよって言ったから」
「どうバッチリなんだ、夏絵?」
 夏絵は横でニコニコしながらその様子を眺めていた。そんな笑顔を崩すことなく、
「バッチリ、驚いてくれるわよ」
 悪びれることもなく言った。
「だそうだ」
「ふえーん、花穂またドジしちゃった」
「安心しろ、全部夏絵の作為だ……お前のせいじゃない」
 ため息混じりに告げ、花穂の頭をなでた。憤慨したように叫びをあげ、夏絵は泣き崩れる。
「酷いっ! お母さんはただ、はー君の記憶に残るような誕生日にしてあげようと思っただけなのに」
「不要な配慮をするな」
「続きまして、はー君思い出企画第2弾!」
「だから必要ないと言っている」
 そんな誕生日会の一幕。

『おまけ2』

「ひろ」
 弟に呼びかけると、鈴凛と衛に囲まれながらから揚げを食べていた秋弘は顔をあげた。
「兄さん、何?」
「いや、お前はどうして寝不足になったんだ?」
 花穂は準備をしていた、それは分かる。しかしその花穂の話では準備はほとんで一人で進め、秋弘には部屋を借りただけだったし、花穂が作業している間はピアノの練習はしていなかったらしい。では、一体どうして秋弘は寝不足だったのだろう……そんな疑問が残った。
「え、別に理由なんてないけど……」
 一瞬両隣に視線を移し、秋弘は戸惑いがちに答えた。それだけで、春樹は大体の事情を悟った。
「衛、お前ひろと毎朝マラソンしてるんだよな……何時くらいからだ?」
「え、7時くらいかな」
「鈴凛、お前ひろに発明の手伝いを毎晩してもらっているだろ……何時くらいまでだ?」
「えー……3時4時……」
 鈴凛が答える頃には二人とも事情を悟ってしまった。
 驚きと戸惑いを織り交ぜながら顔を見合わせる鈴凛と衛。
「衛……そんなに早く、しかも毎日マラソンしてるの、アニキと」
「あねぇだって、春休みだからって、毎晩あにぃと徹夜してるの……」
 そして乾いた笑みを浮かべて、鈴凛と衛は秋弘を見た。
「別に気にしなくてもいいよ……春休みだし」
 気にするなと言う方が無理なほど、秋弘は眠たそうな顔をしていた。
「あねぇ……もうちょっと時間ずらした方がいいみたい、だね」
「……そうね」
 朝型の衛と、夜型の鈴凛……同時に相手できるはずもなかった。

(今度こそ終わり)


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