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作 葉坂沙希也さん


 どこまでも白く、いつまでも白いままで、それは降り積もった。
 足元に重ねられた断片も、そっと大地に染み込んでいく。
 見渡す限り、その世界は汚れを知らなかった。
 深々と舞い降りる天からの無数の使者、彼女達が大地や木々に降り注ぐ中、一部の気まぐれな者たちは、そこにぽつんと取り残された少女に寄り添っていった。
 その少女は、黒を基調としたローブを着込み、呼吸すら凍てつくようなこの世界で身じろぎ一つせずに立ち尽くしていた。少女に舞い降りた雪は、ゆっくりと小さくなり、あまりにもあっさりと姿を消してしまった。
 雪化粧を汚れと呼ぶほど、そこに立つ少女は愚かではなかった。
 それに、雪もまた魔力を秘めていることを彼女は心得ていた。
 月の光が人を狂わせるように、雪もまた人を鎮めゆくものだ。
 世界はどこまでも白く、凛と張り詰めた空気が身を引き締めていく。
 現実味のない世界で、確かに少女の感覚は凍えを訴えていた。
 しかし、千影はどうしてそこに立っているのかも、実はまだ把握していなかった。
 気がつけば一面の銀世界。
 そしてそこには誰もいない。
「……これが……孤独かい?」
 誰も答えてくれるはずもなく、もとよりそのくらい彼女にも分かっているのだろうが、それでも何も言わずにはいられなかった。口の中に、張り詰めた空気が入ってくる。おしゃべりさえも許さない、そんな声が聞こえてきそうだ。
 紡いだ言葉は、白く濁って、霧散した。本当に、その程度の声だったかもしれない。それに、どれだけ大声で叫んでみても、意味のないことだろう。周囲には誰もいない。いた様子もない。まだ歩みもしていない彼女の周りには、ただ処女雪が横たわっていた。
 足跡がないことに別段彼女は驚かない。
 聡明すぎる彼女は、状況を悟り始めていた。
「兄くん…………」
 まだ、時間ではない。
 あの、決断の時ではない。
「兄くん……私を選んで……」
 それでも、その時は確実にやってくる。
 人は時間からは逃れることはできない。人は等しく時間を消費して生きていくしかないのだ。身の上にどんな不幸があろうとも、それが決まり、それが誓約。
 千影は空を見上げた。
 雪のかけらが、ただ舞い降りてくる。
 ゆっくりと、ゆっくりと、まるで大地に辿り着くのをごねているようにも見えた。
 無音の世界も、身を切るような寒さも、千影には関係なかった。
 最も大切なのは、これから起こること、それへの得体の知れぬ恐怖。それだけだ。そしてそれがすべて。
 灰色の空からは、絶え間なく雪が降りつづけていた。
 風が吹きつける。
 風が奪っていくのは、彼女のぬくもりだけではなかった。

 千影がそれを知ったのは、単なる偶然だった。それとも、それが必然だったのか、そのときの千影には分からなかった。
 彼女には兄がいる。そしてその兄には、自分を含めて12人の妹がいた。大きな屋敷に、13人で暮らしている。両親は死んだが、遺産が残っており、まだ生活にはゆとりがあった。遺産が尽きるころには、それぞれ自立しているだろう。
 そんな中、やはりそれも雪の日だったが、千影が兄の部屋を通り過ぎようとした時、部屋の中から会話する声が聞こえたのだ。
「……もう、時間なのか?」
 兄の声は切羽詰まっていた。千影は眉根をよせ、悪いとは思いながらも聞き耳を立てることにした。
「ええ、1週間後に……」
 中からは、知らない男の声が聞こえてきた。感情を含まない、それでいてこちらに嫌悪感を抱かせる、低く響く声。
「どうにもらないのか?」
「……それが契約でしょう?」
 何を当たり前なことを、中にいる男はそんな態度だった。
「けど、なんでこんなことを……」
「よろしいではありませんか。確率は12分の1。やってやれないことはありません」
 12分の1? 何の話なのか、千影にはさっぱり分からなかった。
「けど……」
「往生際が悪いですな、そういう契約です。なんなら、いますぐこの世界を破棄してもいいのですよ」
「それは……」
 世界を破棄? なんなんだ、兄くんは何をしているんだ?
 千影はいますぐ兄に問いただしたかった。しかし、そんな雰囲気ではない。今千影が飛び込んだところで一体何ができる。二人は話を止め、誤魔化してしまうだろう。それよりは、まだこうしていた方がいい。
「いつまでも夢をたゆたうのは不可能。それを悟りなさい」
 もはや話は済んだ、男の言葉がそう語る。そして中の男がこちらに、扉に向かってくるのを感じたが、千影は慌てることなく今扉の前を通過したかのように見せた。
 扉を開けて出てきたその男と、視線が合った。男は、黒髪をオールバックにした、秘書や執事といった感じだった。口調から想像していたよりは、割と若い。
「千影さん、でしたかな?」
 その男が、千影をみて尋ねる。千影はゆっくりとうなずいた。ちらりと兄をみると、兄は顔面を蒼白にしてこちらを見ていた。
「ふむ、かわいいお嬢さんだ」
 誉められているのだろうが、しかし、どこかに違う意味を隠している、そんな気がした。それにこの男、先ほどから軽薄な、気味の悪い笑みを崩していない。悪趣味な微笑みを浮かべる相手に誉められたところで、かえって嫌悪感を持ってしまう。
「他の御姉妹さんにもよろしくお伝えください。また、お世話になるでしょうからね」
 そう言うと、その男はさっさとその場を去ってしまった。
「兄くん……今のは?」
 千影が兄の方を見ると、兄は自分の視線を避けるような仕種を見せた。
「……なんでもない。千影には、関係ない」
 それだけ言うと硬い表情のまま、兄は部屋の扉を閉めてしまった。
 兄は珍しく声を荒らげていた。よほどのことがあったのだろう、あの男とは。しかし、千影にそれを知る術はない。
 千影はしばらくそこに立っていたが、やがてその場を去っていった。
「あ、アネキ、今の人誰?」
 下に降りると、今帰ってきたばかりの鈴凛が服にかかった雪を払いながら聞いてきた。どうやらちょうどすれ違ったらしい。
「さあね……。 兄くんの……知り合いらしいけど……」
「ふぅん。変なこと言ってたからさ、誰なのかなって思ったんだけど」
「変な……こと?」
 千影は気になってその先を促した。
「うん、なんか、アニキの決断が楽しみだとかなんとか」
 ──1週間後に。
 あの男の言葉が蘇る。しかし、決断とはなんなのか。兄は1週間後に何を迫られているのだろうか。
「あと、あなたの仲間が増えるように期待しているといいって」
 その言葉が、千影の混乱に拍車をかけた。
それから、4日間はあの男が現れることもなかった。千影は兄に探りを入れてみたり、自分でも色々調べてみたりしたが、結局何も分からなかった。
 そして5日目の朝、それは唐突に起こった。

 千影がリビングに入ると、もうみんなそろっていた。今日は休日なので、みんなでそろって昼食をとることになっているのだ。
「千影、遅いわよ」
 妹の中では最年長の咲耶が子どもっぽく頬を膨らませていた。
「……少々……寝不足でね」
 実際、千影はここのところはずっと徹夜していた。あの男について様々な手を使って調べようとしたが、何の収穫もなく終わっていた。兄に自白剤でも飲ませようかという考えにまで到ったが、さすがの千影もそればかりははばかられた。兄は必死に隠そうとしているのだ、今はまだ聞くべき時期ではないのかもしれない。
「お姉ちゃま、今度はどんな研究してるの?」
 花穂の質問に、千影はかすかに苦笑を浮かべる。しかし、それは本当にわずかなものだったので、誰かが気づくということもなかった。
「研究というほどでも……ないよ。……調べもの……だからね」
「調査なら四葉にお任せデス!!」
 やおら四葉が立ち上がり、叫びをあげた。
「兄チャマのことなら四葉がしっかりチェキしてるから、何でもご相談あれ、デス」
「いや……そういうことではないから……」
 千影が丁重にお断りすると、四葉は舌打ちして席についた。四葉に関わられたら、事態は間違いなくわけの分からない方向に向かってしまう。それだけは勘弁してほしかった。ただでさえ分からないことだらけなのに。
「じゃあ、食べるとするか」
「今日は姫が作ったとっておきのホワイトシチューですのよ」
 白雪が暖かいシチューをお皿に注いでいくと、そこからおいしそうな湯気が立ち上がった。
 千影はふと、可憐のほうを見た。なんというわけでもない、ただ視線がそちらに向いただけの話だ。
「可憐……くん?」
 しかしその何となくで、千影は可憐の様子がおかしいことに気がついた。
「雪……」
 ぽつりと呟いたその言葉を聞き取るのが、千影にはやっとのことだった。
 可憐はシチューを、正確にはそこからでる湯気を注視していた。そして、その瞳からだんだんと力が抜けていくのを知るのはすぐだった。
「ゆ、き……雪が見えるの」
 顔がはっきりと青ざめていく。声も、この世の終わりに直面したかのように震えていた。可憐が持ったスプーンが机に当たり、かたかたと音を立てた。
「いやぁぁぁぁ、お兄ちゃん!!」
「可憐さん、どうされたのですか!?」
 隣に座っていた春歌が、突然震えだした可憐を抱きかかえた。
「嫌だよ、可憐死んじゃうよぉ」
「可憐さん!!」
 春歌は可憐を机から引き離した。しかし、可憐は春歌の腕の中で暴れつづけた。その瞳から零れ落ちるものも気にとめず、何かをつかもうと懸命にその細い腕を伸ばし続けていた。
 顔が真っ青になっていく。その震えようは、本当に凍え死んでしまうように激しく、どうしようもなく切なく映った。
「お兄ちゃん!!」
 春歌が抱きかかえる中、可憐は何度も何度もそう呼びつづけた。しかし、肝心の兄は可憐が手を伸ばす先にはいなかった。見えていないのだろう。可憐の瞳は、ただ涙を流しつづける以外機能しなくなってしまったかのように、可憐は誰もいないほうに手を伸ばしつづけた。
 そこにいるのは、無力な少女だった。
「部屋に連れて行くんだ………私もいく……」
 皆があっけにとられる中、千影は冷静に状況を判断し、そう指示した。春歌が頷き、可憐を抱きあげた。
「兄くん……あとで話したいことがある……」
 暴れる可憐を、春歌と千影で抑えながら部屋をあとにする。
 そのとき、千影は兄の緊張した表情を見逃さなかった。
 それは、可憐への心配の向こう側にある、別の感情から来るものだと千影には感じられた。
 2人して可憐の部屋につれて行った頃には、可憐は落ち着きを取り戻してきた。
 ベットに腰掛ける可憐に、千影は尋ねた。
「……一体何があったんだい……可憐くん……」
「あのね、雪が見えたの」
 まだ赤いままのまぶたをこすり、可憐は呟いた。
「誰もいなかったの……とっても寒くて、可憐、死んじゃうんじゃないかって……」
 思い出すのも痛むのか、可憐は目を伏せた。千影も春歌も、自分からは何も言わない。事態がよく分からないこともあったが、可憐の気持ちを察してのことだ。
「お兄ちゃんがいたの……それで、さようならって……可憐、何のことか分からなくて、でもさようならなんて言ってほしくなかったから、必死になって追いかけようとしたの」
 別れの言葉、それが妹達にとって聞きたくない言葉の一つには違いなかった。千影にしても、春歌にしても、それは同じである。
 こみ上げてくるものを、可憐は抑えることができなかった。
 一度は止まった涙が、また頬を伝っていく。
「けどね……吹雪いてて可憐、全然前に進めなかったの。逆に、どんどん後ろに押されていって、けど、お兄ちゃんはどんどん遠くに行っちゃうの……」
 千影お姉ちゃん、可憐のか細い声に千影は涙を拭ってあげた。指が可憐のぬくもりを伝えてくれる。その可憐が、自分を見上げた。
「今の、なんで見ちゃったの? 可憐、もうすぐお兄ちゃんとお別れしちゃうの?」
 痛かった。その弱々しい視線に、千影は答える術を知らなかった。それは自分が疑っていることそのものだったから。
 1週間後に、世界は崩壊する。
 兄の行動いかんでは、そうなることは予想がつく。
 ただ、具体的に何をしていればいいのか、それは分からない。というよりも、分からないことだらけで、はっきり言って千影には何もできそうになかった。
 決別は目の前にあるというのに。
「ねぇ、お姉ちゃん!!」
 可憐が千影の腕をつかんで、揺さぶった。
 これが姉としての重責なら、そして、これ以上のものを、12も兄が抱えているのなら、兄の背負ったものの重みも少しは分かる気がする。
 兄が自分達の思いを苦痛に思うなら、千影は兄の元を去るのだろうかと考えたこともある。
 ……無理だろう。
 結論はそれだった。引き裂かれでもしない限り、自分にはそんなことはできないだろう。
 千影は可憐を見下ろした。可憐はうつむいていた。自分の腕を揺さぶっていないと、また雪の風景がよみがえってきてしまうのだろう。千影は、そんな可憐の肩に腕を回した。
「君の気持ちが……本物なら…………兄くんが離れることはないよ」
 届いたのだろうか、可憐の腕から力が抜けていった。
「でも……お兄ちゃんは可憐のこと、どう思ってるのかな」
 答えられるはずのない質問が、部屋の空気を重くした。

 その後、咲耶が可憐と一緒にいるということで、千影と春歌はみんなとは少々ずれてしまったが昼食を取った。
 こういうとき長女って損よね、咲耶はかすかに苦笑を浮かべていた。
 兄は食事し終わると、すぐに部屋にこもってしまったらしい。可憐のことが関係しているのは容易に想像がついた。
 外は雪が積もっていた。それを見たからではないが、千影は決心した。
 たとえ傷つく結果になろうと、もう聞かずにはいられなかった。
 食事を終えた千影は、さっそく兄の部屋に向かった。
「兄くん……入ってもいいかい?」
 ノックしたあと、間があいたが兄はいいよと返事した。
「どうかしたのか、千影?」
「今日こそは……きちんと説明してもらおうと……思ってね……」
 一瞬兄の表情が硬くなるのを、千影は見ていた。
「話すことはないよ……」
 兄は千影に背を向けた。
「兄くん……これはもはや…兄くんだけの問題じゃない」
 千影は兄の意見はすべて無視するつもりだった。
 可憐が見たもの。1週間後に、もはやあと2日あまりだが、しなければならないという決断。あの怪しい男のこと。
 千影が聞きたいことはすべて問いただすつもりでいた。
「……扉を閉めてくれないか?」
 兄は嘆息し、自分のベッドに腰掛けた。千影は言われたとおりに入ってきた扉を閉め、兄の近くにあった椅子に腰掛けた。
「誰にも言うな。これが条件だ」
 兄の瞳にけおされながら、千影は無言で頷いた。
「お前は勘がいいからな……多分気づくと思ってた」
 うつむき加減の兄は、自嘲ぎみに話し始めた。
「俺にはお前を含めて12人妹がいる、という設定になっている」
「……設定?」
 千影は表情を歪めた。それだけ今の言葉は理解しがたいものだった。
「5日ぐらい前、変な男が来ただろ?」
 確認の言葉に、千影は釈然としないものを感じながら頷いた。
「この世界は、そいつの世界だ」
「訳が分からないよ……兄くん」
「それが事実だ」
 千影の困惑など無視し、兄は話を続けた。
「俺にはもともと、妹は1人しかいない」
「兄くん……」
 千影に、兄の説明についていくことなどできなかった。
 12人いるうち1人だけが本当の妹?
 この世界は、あの男の世界?
「どういうことなんだ、この世界はなんだって言うんだい? 12人いて本当の妹が1人しかいないって、他のみんなはなんだって言うんだ!?」
 千影は立ち上がると、興奮してか早口でまくしたてた。兄はゆっくりと首を横に振った。 
「だから、隠しておきたかった」
 兄の口から出るため息で、千影はまた椅子に座った。
「分かりやすく言えば、ここは俺の夢の中。現実の俺は眠ってるはずだ、死の間際で」
「本当に……ここは現実じゃないの」
 否定してほしかった。しかし、何も言わずに兄は首を縦にふった。
「じゃあ、本当の妹って……誰なの?」
 一番知りたくて、一番聞きたくない答え。
 いままで信じてきたものが壊れるかもしれない、瀬戸際。
 これまでの想いや、感情や、存在そのものさえも打ち消すかもしれない、その答え。
 もう何度目になるだろう、兄はまた首を横に振った。
「俺も知らない……。本当の妹は、これから探す」
「もう……あいまいにしないで」
「……本当に知らない。というより、忘れさせられた」
 沈痛な面持ちで答える兄を、責める気にはなれなかった。それでも、自分の中に確かにくすぶっているものがある。
「あの男……かい?」
「やつは、悪魔だ。俺は魂を賭けて、12分の1のギャンブルをしている」
 ギャンブル……12分の1……12人中本当の妹は1人……。
 千影の中で疑問だったものが少しずつ氷解していく。
「……本当の妹が分かれば……兄くんは助かるのかい?」
 重く、兄は頷いた。
「本当の妹は、現実では死んだんだ。俺はその妹の死が信じられなくて、悪魔に魂を売ってもいいから生き返ってほしいと思った。そしたらほんとに悪魔が来たんだから驚きだよな」
 まだ自嘲ぎみに微笑みを浮かべる兄。そして千影は別の思いに恐怖を覚えていた。
「……兄くん。もし私が……兄くんの妹でなかったとしたら……私はどうなるんだい?」
 12分の11の確率で、自分は本当の妹ではない。絶対的に絶望するしかない数字でもないが、かといって希望も持てない数字だった。
「他11人はあいつの持ち物って説明を受けた。俺が失敗すれば俺は死に、本当の妹の魂も奴のコレクションに入る。俺に絶望してこそ、真の輝きを得るんだとよ」
 本物が分からなかった、その事実を突きつける。
 これ以上の絶望もないだろう。自分が分からなかった、自分よりも他の子の方がよかった、それだけでもう十分にダメージを受けるだろう。それこそ、再起不能な程度には。
「……兄くん……私は……」
 どうすればいいんだい、その言葉を出すことはできなかった。
 自分の弱い部分を、兄には見せられなかった。兄の重責、それが痛いほど伝わってくる。妹と自分の命がかかっている決断、いや、たとえ自分が確実に死ぬにしても兄はこの賭けを受けただろう、その決断はあまりにも重い。
 余計な心配をかけてはいけない。兄へのせめてもの思いやり。
「………………」
 無言のまま、ゆっくりと兄の腕が千影の顔に近づいてきた。訳も分からずその動きを見守った。兄の指先が千影の頬に触れると、なぞるように上がってくる。
「これ以上は、泣かないでくれよ」
 ──泣いていた!?
 自分でも気がつかなかった。しかし、兄に拭われてはじめて、自分の頬が湿っていることに気がついた。 兄の弱々しい微笑み。自分よりも、兄のほうが辛いのに……。思えば、誰が本物の妹かも分からないのに、兄は誰にでも優しく接してきた。
「兄………くん……」
「後悔はしないさ……死んだはずの妹と、こうして少しでも長くいられたんだから」
「……兄くんは……バカだよ……」
 兄の顔を見ないように、自分の内側だけに集中して、千影は言葉を紡いだ。でないと、自分は自分を破って外側に出てしまうだろう。
「そうだろうな……こんな賭けに出たんだからな」
「違う!!」
 もう限界だった。
「なんで言ってくれない!! もっと早く。もしかしたら……逃げられたかも……しれないのに……」
 そう言ったつもりだった。しかし、そのすべてが涙に溶けこんだ。
 兄はそっと、千影を抱いた。兄のぬくもりの中、千影は我を忘れて泣いた。
 これが最後かもしれないと、どこかで思いながら。

 そして、何もできぬまま、決断の時を迎えた。

「兄くん……決断はできたのかい?」
 千影は言った。兄は千影を見ないまま、階段を下りてゆく。見下ろす千影からは、兄の背が酷く小さく感じた。
「…………兄くん」
 千影は黙ってその後をついていった。
 兄は玄関の前で、ノブに手をかけて立ち止まった。
「外は雪だ」
 朝日が昇り、これから朝食を向かえる。
「この扉を開けると吹雪が入り込んで、お前達を包む」
「兄くん……本当に開けてしまうのかい?」
 この扉を開けたとき、それが最後なのだろう。兄の悲壮な顔はそう言っている。
「……まだ……なんとかなるかもしれないのに……」
「それはない」
 千影の言葉を断ち切るように、兄は強く叫んだ。しかし、千影は屈しない。
「もう少し……もう少しだけでいいから………一緒にご飯を食べようよ…………」
「……そうしたら、俺はもうこの扉を開けられない」
「けど……」
「………引き返せないんだよ。もう、引き返せない」
 兄は千影から目をそらし、扉の正面に立った。
「兄くん……」
 止めるべきなのだろうか。
 止めたい。止めたいけど、それはできなかった。
 兄の決意は、多分固くて脆い。
 ぼやけた視界の中で、兄は小さく、遠い。
 消えるのは嫌だ。しかし、それでは兄は死ぬ。
 ぐちゃぐちゃになる感情をまとめきれず、千影の手足は震えた。
 心の奥が、震えている。
「……こんな最後は……嫌だ…………」
「最後じゃない」
 それでも、兄は千影に背をむけたままだった。
「もう最後は過ぎた。延長戦……なら後悔はない」
「そんな覚悟ができているのは兄くんだけだ!! 私は……」
「逃げ道はないんだよ。なら、目の前にある道を行くしかない」
「やめてくれ……」
 千影は駆け出した。
 もういい。兄を止める。このまま消えてもいい。
 こんな最後だけは嫌だ。
「兄くん!!」
 千影の手が兄に触れる前、いや、かすかに触れたその瞬間。

 ──扉は解き放たれた。


 目の前は真っ白になった。
 瞬間、千影は理解はしていた。これは可憐が見た世界なのだろうと。
 しかし、なぜ一面の雪景色になっているのかを知ることはできなかった。
 自分は今まで玄関先にいたはずなのに。
「兄くん……私を選んで……」
 届くはずのない言葉。
 伝わるはずのない想い。
 兄が決断を下したとき、自分はどうなってしまうのだろう。
 知ることのかなわぬ結末。
 見ることのできない未来。
 寒いからではない。
 ただ己の思考に千影は戦慄した。
「兄くん……兄くん……兄くん……兄くん……」
 それが何かの呪文であるかのように、千影はその言葉をつづけた。
 途切れ途切れの言葉に、やがて空間は呼応した。
 雪にまぎれて1つ、小さな光の玉が現われたのた。
「兄くん……」
 予感。前兆。
 心が凍りゆくその寸前、千影はまだ残っていた自分を奮い立たせた。
 光が、ゆっくりと自分の目の前に降り立った。
 蛍のように、それは儚い光だった。
 その光がはじけた。 
「……兄…くん」
 閃光の中から現われたのは、紛れもなく兄の姿だった。
「千影……」
「兄くん……」
 気がつけば、千影は兄の胸の中に顔をうずめていた。
「ありがとう……」
「……まだその言葉は早いよ」
 あれだけ寒かったのに、あれだけ凍えてしまいそうだったのに、今はどうしてこんなに暖かいんだろう。
 兄は千影を抱きかかえていた腕を肩に回すと、虚空を見つめた。
「これが答えだ」
 宣言。
 もう引き返せない。
 千影は泣きながら、兄の見つめる方向を見た。いつの間にか、あの男が立っていた。
「それでいいのですね?」
 心情の見えない表情で、男が両手を広げた。その手から、兄が現われたときのように小さな光が1つ1つ現われた。
「この声を聞いても、決断は揺らがないのですね?」
 その光、数は11。
 そこから、妹達の声が響いた。
 必死になって助けを求める声。あのときの可憐と同じだ。
 自然と、千影を抱える兄の腕に力が入った。
「兄くん………痛いよ……」
 その力は尋常ではなかった。
 千影にも妹達の声は聞こえた。自分が同じ立場だったら……それを考えると心の痛みがぶり返してきた。
「俺は……」
 兄は口を開いた。
「扉を開ける瞬間、千影の指先から伝わってきたあのぬくもりを信じる」
「残念ですよ」
 言うなり、男は小さな光をかき消した。
「本当に残念ですよ」
 そして、男は右手を上げた。
 その手のひらにも、やはり小さな光が灯っていた。
「この光が、あなた達を次の世界へ導くでしょう」
 男が手を2人のほうに振ると、光がゆっくりと近づいてきた。
「生か死か……。自分で確かめることです」
 2人は身動きひとつせず、ただその光を受け入れた。

 光が差し込んできた。
「珍しいな、お前が寝坊なんて」
 千影が目を開くと、そこには寝癖の治っていない兄の姿があった。
「兄くんっ!!」
 千影は慌てて起き上がった。
「ここは……?」
「何言ってんだよ、家に決まってるだろ?」
「……そうか……なんだか、長い夢を見ていた気がする」
 見渡せば、ここは自分の部屋だった。
 そして、兄の笑顔。
 いつもと変わらない光景。
「兄くん……勝手に入ってこないでって……言ってなかったかい?」
「寝坊してたから起こしに来たんだろ」
 記憶をたどってみる。今日は日曜日のはずだ。
「……どこかに行く予定が……あったかい?」
「一緒に出かけようっていってたろ?」
 今日は、買い物をしよう。そう言っていたのだった。
「すぐ……用意するよ」
 千影は眠気まなこをこすり、ベッドから立ち上がった。

「12分の1をクリアするとは、正直驚きましたよ」
 無の世界で、男は一人佇んでいた。
「さて、行きましょうか。次は何を演じてもらいましょうか?」
 11の魂を従え、男はまた次の獲物を探しに行った。       (終)


葉坂沙希也さんへの感想はこちら
hasakasakiya@hotmail.com
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