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 いいかい………いつか春が来て、この雪が溶けてしまう時が来ても──。

 響く声はあまりに切なく、そして吹き荒ぶ風の前にかき消されてしまいそうだった。少年はひとり、そこに座したまま、空を見上げていた。
 空から舞い落ちるもの、その結晶に、少年の瞳は何を感じたのだろう。
 そして、その隣で白い息をはきながら少年と同じように空を見上げて少年に身を預ける少女も、その白き使者をじっと見つめたままだった。
 時が止まってしまったかのように、静かな空間で。
 ただ深々と、白く塗り替えられていく世界。
 そして風は巻き、またどこかへと過ぎ去ってしまった。
 それは聖夜、10年も前の話。

 声は、続いた。

 ──この約束は、消え去ることはないからね。


Weather loop

作 葉坂沙希也さん


 街はクリスマスムード一色だった。
 煌めくイルミネーション、そしてあたりを包むように流れる定番のクリスマスソング。
 同じことを繰り返しているはずなのに、それでも高まりゆく感情、そして風景を。街の灯りに、幾億を越える星々の煌めきは霞んでしまっているけれど……。心のどこかで、その夜空を思い描きながら。
 きっと誰もが心揺さぶられる、そんな場所で。
「はぁ……」
 通りにため息が舞った。
 青年はウィンドウを眺めながら、その中にあるものをじっと眺めていた。そこにあるのは、きらめかんばかりのバックやドレス。夢のような世界、それはそうだろう、どれだけ望んでもその空間に手を差し入れることなど叶わないのだから。そして無粋な現実を叩きつけるように、無情にも数字はいくつも並んでいた。
 彼の頭を巡るのは、財布の中身だった。
「何買ったもんかな……」
 もうすぐクリスマスがやってくる。
 長谷正樹は毎年のようにこの時期が来ると悩んでいた。彼には妹がいる、名前は春歌。何をどう間違ったのか大和撫子に憧れている、そして自分に仕えるとか何とか言っている少女だった。
 ──いや、別にいいんだけどね。
 仲良きことは美しきことかな、正樹自身は春歌のことをそんなに問題だとは思っていなかった。自分の妹にしてはかわいいし、気立てもいいし。
「何考えてるんだ、僕は……」
 今はそれどころではなかった。クリスマスイブまであと2日をきっている。まだ当日の予定も決まっていなければプレゼントも買っていない。それもこれも……。
「約束か……」
 幼い頃の話。
 それでも、自分の意志でその盟約を交わした。
 破棄などできない。
「余計な約束しちまったな」
 それでも時は迫るのだろう……容赦も寛容もなく。
 正樹の息は白く染まった。そして、すぐに闇に溶けた。
 それは人にはどうしようもないこと。もう、取り返しのつかないこと。
 毎年クリスマスが近づくと痛む左胸を押さえながら、正樹は家路についた。

 雪の降らない12月だった。この地方では、雪など降るほうが珍しかったのだが。
 明かり点るその家庭に、まな板と包丁のリズムがテンポよく刻まれていた。
「兄君さまに喜んでいただけるかしら♪」
 鼻歌交じりに次々に料理を進めていくのは、割烹着に身を包んだ少女だった。ポニーテールの長い髪が、その鼻歌にあわせて揺れているようだった。
 煮物をメインに炊き込み御飯など、今日は少々豪華だった。
 あと二日でクリスマスイブ。その日の兄の予定をとった春歌は上気分だった。
「ふふふ、クリスマスの夜に二人きり………兄君さまはワタクシの肩をそっと抱えて、そんな、いけませんわ」
 そして例のごとく春歌は妄想ワールドへと突き進んでいく。
 煮立っている魚をことごとく無視しながら。
「そして兄君さまは、ワタクシをいたわるようにそっと……」
「春歌?」
「そう、こんな風にそっとワタクシの柔肌に触れて……」
「吹きこぼれてるよ?」
「愛の言葉をそっとささやいてくれるのですわ!!」
「いや、それはないと思うけど。ってか、吹きこぼれ……」
「そう、吹きこぼれと……吹きこぼれ??」
 ようやく正気に戻った春歌は目の前の惨状を認識した。
 煮魚を作っていた鍋はぐつぐつと煮えたぎり、ぶくぶくと吹きこぼれていた。
「きゃぁぁ!?」
 慌てて火を止めるものの、時すでに遅かった。
「ああ、何てことを……」
「あの、春歌……大丈夫?」
 春歌はその声にはっとして振り返った。
「あ、兄君さま、いつの間に!?」
「……気付いてなかったんだね」
 帰ってきた正樹はすこし涙目になりながら肩を落とした。
 ──この妄想がなければなぁ。
 ときどき春歌は帰ってこない。家に、ではなく妄想の世界からなのだが。
 ──別に妄想はいいんだよ、ただ、対象が僕ってのは問題がある気が。
 気ではなく、確実に問題なのだが……。
 春歌の方は落し蓋をそっととって魚のほうを確認していた。
「……はぁ、煮崩れしてしまいましたわ」
 あれだけぐつぐつと煮えたぎっていれば煮崩れも当然の結果だろう。正樹はため息をつくと改めて春歌の肩にそっと手を乗せた。
「まぁ、味は変わらないでしょ。食べれるよ」
「しかし、煮魚はいかに形を保つかにかかっているんです。ほら、見栄えがよくないでしょう?」
 鍋を覗き込む春歌と正樹。たしかに見栄えがいいとはお世辞にも言えない状態だった。
「だからなんていうかさ、今日はこれでいいじゃん」
 なんと言うか、客観的に見れば説得力に乏しい言葉だった。しかし、春歌にはそれで十分のようだった。
「そうです……ね。兄君さまがそうおっしゃられるなら」
 気がつけば、お互いに笑いあっていた。
 それは幸せな時だろう、正樹はそう感じていた。
「いただきます」
 そして夕食。二人は向かい合って煮崩れした魚をかこんでいた。
 二人の両親はあまり帰ってこない。共働きで忙しいのだ。今では春歌が家事のほとんどをこなしている。流れてくるテレビの番組は、クリスマスのデートスポットを紹介していた。
「あさって、どこにいく?」
 正樹はプレゼント以外を秘密裏にするのをあきらめていた。今から考えてもどうにもならないと結論を出したのだ……少々情けない結論ではあったのだが。
「兄君さまが行きたいとおっしゃればこの春歌、どこへでもついていきますわ」
 ──それじゃ困るから聞いてるのに。
 正樹はある意味予想通りの回答に内心苦笑していた。まあ行きたい場所というか、それなりに考えてはいたけれど、相手の希望に添ったほうがいいかなぁと考えていた。それが無難なだけという説もあるが。
 正樹はテレビの方に視線をやった。
 去年のクリスマスは場所によってはホワイトクリスマスになっていたらしい、その映像が流れていた。
「ホワイトクリスマスか……」
「ロマンチックですわね」
 正樹が春歌のほうを見ると、ほんのりと頬に赤味が差しているのが分かった。さすがに長年春歌の兄をやっているだけあって、これが妄想への入り口であることを正樹は悟っていた。
「舞い落ちる雪……寒空の中、愛し合う二人はそっと肩を寄せ合って、きゃあぁぁぁ!!」
「春歌……」
 正樹の表情はさえなかった。それは、声が届かないということが原因なのではなかった。
「そんな、兄君さま……このような場所ではしたないことを……」
「春歌!!」
 正樹にしては珍しく、怒気をはらんだ叫びだった。
 さすがの春歌も体を震わせて、恐る恐る正樹の方を覗き込んだ。
「あ、兄君さま……」
 明らかにいらだっている兄の様子に、春歌は怯えていた。
「悪いけど……今年はホワイトクリスマスにはならないよ」
「え?」
 春歌にはすぐには正樹の言葉が理解できなかった。
「どうして分かるんですか?」
「暖かいだろ、最近……」
 正樹は答えをはぐらかした。
「ごちそうさま」
 そしてそのまま席を立ってしまう。
「兄君さま、ワタクシがなにかお気に召さないことでもいたしましたか!?」
 慌てて立ち上がる春歌に、正樹は振り返った。
 春歌はその場で動けなくなってしまった。その視線の、あまりの儚さに。兄のそんな瞳を、春歌は今まで見たことも想像したこともなかった。
 立ちすくんだままの春歌に、正樹は告げた。
「怒鳴ったりして、ごめんね」
 そしてリビングから彼の姿は消えた。

「僕はバカか……」
 部屋に戻り、ベッドにうつぶせになった正樹はひとりごちていた。
「春歌にあたってどうするんだよ」
 春歌は悪くない。それはただ自分が愚かなだけだった、それだけだ。
 どれだけあがいても、明日はやってくるのに。
「苦しい……」
 それでもまだ、この左胸の痛みには耐えられるだろう。汗の滲む額を枕にうずめ、その左胸を押さえながら、正樹は少し早い眠りにつこうとしていた。少なくとも寝ている間ならば、思い悩むこともない。
 約束の時がやってくるように、その足音が聞こえるかのようだった。


 嬉しいことなのかどうか微妙に判断に迷うところではあったが、行き当たりばったりで行った映画館はクリスマス企画なのかなんなのかカップルなら半額だった。
「カップルだなんて……ポッ」
 まあ安いに越したことはないので正樹たちはそのままカップルということで入場した。それらしく、手を繋ぎながら。映画の内容は、平安時代の恋物語を描いたものだった。春歌にぴったりな映画が都合よくやっていたものだ……。
 正樹は繋がれた右手を感じながら、左手では自分の胸を押さえていた。苦しみを発するその胸を押さえ、少しでも痛みを抑えようとしていた。春歌に気取られないように、平静を装いながら。
 毎年クリスマスになると胸が痛む。それは約束を忘れさせないための枷。
 それでも今日は約束の日──。
 その痛みはいつも以上だった。
 春歌には悪いと思いながら、映画の内容は全然頭に入ってこない。
 ただ、できるだけ長くこの手を繋いでいられるように、それだけを考えていた。
 そして気がつけば、周囲は明るくなっていた。終わったようだ。
「はぁ、素敵な恋物語でしたわ……」
 頬を赤らめている春歌は、まだ兄の様子には気がついていなかった。
「そうだね……」
 何とか返事をして立ち上がろうとする正樹はふらふらしていた。額ばかりだけでなく全身を汗で濡らしていた。
「ご飯でも食べに行こうか」
 それでも平静を装おうとする正樹……しかし流石に春歌も正樹の体調が悪いことに気がついていた。
「兄君さま、お体のほう……大丈夫ですか?」
「別に心配されるほどじゃ──」
 それ以上、正樹が言葉を続けることはなかった。
 春歌の手を引っ張ろうとしたまま、正樹は前のめりになって倒れてしまった。
「あ、兄君さま!!」
 慌てて駆け寄る春歌は叫んだ。
「どなたか、救急車を呼んでください!」

 静寂は、何よりも深くその空間を支配していた。一切の音を許さないかのように。
 それでも、その静寂を振り切って、春歌はじっと兄の方を見つめた。
「兄君さま……」
 デートの途中で倒れた正樹。
 急いで病院に運ばれ、正樹はいま病室で眠っている。窓の外にはもう闇が降りていた。
 春歌には思い当たる節がなかった。この日のために何かしていたようには思えない、例えば栄養失調になったり寝不足で倒れたりするようなことは。もちろん、それを知られたくなくて隠していた可能性もあるけれど。
 医者からはただの疲労だから点滴をうって休めば大丈夫と言われていた。しかし、正樹はなかなか目覚めようとはしなかった。兄はそんなに疲れていたのだろうか……。
「………兄君さま」
 幾ばくも、虚空を切るようにその言葉は繰り返された。
 ベットに横たわる正樹の右手を、両方の手で包み込むようにして。自分の温もりを伝えるように……目の前の最愛の人がまだ生きていること実感するために。
「兄君さま!!」
 その名を何度呼んだだろう、正樹の手が春歌の手を握り返すのを、春歌は確かに感じた。
「兄君さま、大丈夫ですか!?」
 ゆっくりと瞳は開かれた。そして頭を倒して、正樹はその声がする方へ……微笑みかけた。
「……ごめん」
「そんな、兄君さまが無事ならそれで」
 頬を伝うそのしずくを見つめ、正樹は春歌の頬をぬぐった。それでも、彼の心が晴れることはないのだけれど……。
「………春歌、僕の鞄取ってくれる?」
 病室の机に乗せられた正樹の鞄を、春歌は手渡した。正樹は鞄を受け取ると、ゆっくりと体を起こした。そして中から、赤いリボンで美しく包装された箱を取り出した。それは細長くて小さな箱だった。
「兄君さま、それは?」
「クリスマスプレゼントだよ。気に入ってくれるか分からないけど」
 そう言って手渡された箱を、春歌は嬉しそうに受け取った。
「あ、兄君さま……ありがとうございます」
「気に入ってくれればいいけどね」
「開けても、よろしいですか?」
 正樹はその言葉を了承し、春歌は丁寧にその包みを解いていった。
 包みを解き、箱の中に入っていたものは、金のネックレスだった。
「素敵ですわ……」
「ペアで、ね」
 正樹は自分の鞄から、同じネックレスを取り出した。そしてまず自分の首にかけた。
「ほら、つけてあげるよ」
 春歌が持つネックレスと受け取ると、正樹は春歌の首にかけてあげた。
「兄君さま、似合いますか?」
「うん、とってもね」
 その微笑みを、春歌は忘れないだろう。
 心からの喜びと、そして悲しみに溢れたその微笑みを。
「……兄君さま?」
 春歌は、その微笑みに……かける言葉を失った。ただ、呼び名を繰り返す、それだけしか思い浮かべることができなかった。何か言うべき言葉は、あったはずなのに。
「春歌、聞いてくれる?」
 それは兄として、有無を言わせない言葉だった。それだけの思いと、意志を伴った──。
 春歌はただ頷くだけだった。
「僕は、今日で死ぬ」
「…………え?」
 春歌に、正樹の言ったことを理解しろという方が酷だろう。正樹にだってそのくらい分かっていた。けれど、告げる必要に迫られた今、もうそうするしかなかった。
「10年前の今日のこと、覚えてる?」
 多分覚えていないだろう、正樹の顔はそう言っていた。
 そして現に、春歌は10年前などといわれてすぐに思い出すことなどできなかった。
「クリスマスイブ………10年前の今日、僕は春歌を連れてね、家を飛び出したんだ」
「えっ……」
 10年前といえば、正樹は6歳、春歌は4歳。
 春歌は記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。かすかに、二人で電車に乗ったような記憶がある気がした。それもおぼろげなものだったけれど。
「だって春歌ってば、ホワイトクリスマスが見たいって言うから……とりあえず北のほうに行こうって、電車に乗って寒そうな方に行ったんだよ」
 懐かしさに笑う正樹、春歌はまだ思い出せないでいた。4歳の頃を思い出すのは、酷なのかもしれない。
「でもさ、子供のお小遣いで雪の降るような場所なんて行ける訳ないから、結局4駅くらい先までしかいけなかったけどね」
 それは懐かしく、儚い思い出。
 妹を連れた、小さな冒険。
 妹の手を引き、兄は雪を探してどこまでも北を目指した。
 4駅先とはいえ、そこは知らない土地。異界に降り立った戦士とお姫様のように、兄は妹をなぐさめ、励ましながら……小さな公園にたどりついた。
 そして──。
「もう顔も覚えていないけど、そこにそのときの僕たちと同じくらいの子供がいたんだ」

「……珍しいね、ここに人が来るなんて」
 少年は、疲れきって公園のベンチに腰掛ける正樹と春歌に声をかけた。
 誰が見ても5、6歳の少年だった。けれど、その外見には似つかわしくないほど、少年は大人びた落ち着きを見せていた。
 小さな公園だった。
 そこにあるのは砂場とブランコと滑り台だけだった。そしてベンチが今正樹たちが座っているのと反対側にもう一つあるだけだった。まわりは森で囲まれていた。
 夕暮れのオレンジもそろそろ闇に包まれようとしていた。そこには電灯が1つあるだけだった。
 寒さに震える妹を抱きかかえながら、兄はその少年を見つめた。
「雪の降ってる場所、知ってる?」
 その問いかけに、少年は笑った。
「今日は降らないよ、そう決められてるからね」
「そっか………」
 正樹は少年の始めの言葉しか気にしていなかった。肩を落とし、正樹は春歌に言った。
「ごめんね春歌……ホワイトクリスマス見れなくて」
「ハルカ、雪が見たいよぉ……」
 寒さと、知らない土地に来てしまったいう心細さ、そして願いが届かないと知ってしまったのだろうか、春歌はとうとう泣き出してしまった。
「春歌、泣かないで……」
 兄として妹をなぐさめようとするけれど、春歌は一向に泣き止もうとはしなかった。まして、正樹もまだ6歳、春歌が泣き続けていれば自分も寂しくなってしまう……。
「泣かないで……泣かないでよぉ……」
 だんだんと涙声になっていく正樹。
 そして堰を切りだそうとしたその瞬間に、その様子を傍観していた少年が声をかけた。
「そんなに雪が見たいなら、見せてあげようか?」
「……え?」
「ただし、条件があるけどね」
 鼻をすすりながらも、正樹は少年の話を聞いた。
 そして、その日は晴天にもかかわらず、雪が降り始めた。

「雪を降らせる条件は、10年後に僕の命を差し出すこと。そのときは、春歌を泣き止ませたい一心でいいよって言っちゃったんだけどね」
「そんな……」
 春歌には信じられなかった。かすかに雪が降ったことは覚えている。けれどそんな約束が交わされていただなんて。
「そんないい加減な話信じる必要ありませんわ。だいたい雪を降らせただなんて……そんなことありえませんわ」
「いい加減だなんて、失礼じゃない?」
 それは聞き覚えのない声だった。
「何者!?」
 病院に何か武器になるようなものなどあるわけもなく、春歌は声のした方に身構えた。
 病室の窓枠には、少年が腰掛けていた。
「……久しぶり、なのかな」
 さして驚いた様子もなく、正樹はその少年に声をかけた。少年は柔らかい微笑みを浮かべ、床に飛び降りると正樹のほうに近づいていった。
「元気だった?」
「兄君さまから離れなさい!!」
 少年を威嚇しながら、春歌は素早く兄を守るように少年の前に立ちふさがった。
 少年は少々意外そうな顔をしていたが、おとなしく1歩下がると開けっ放しだった窓を閉めた。
「自己紹介してなかったよね。ボクは雪の精霊、ティカ、よろしく」
「そのような話、ワタシクは信じません!」
 病院という場所を考えてか、声は多少小さかったものの、はらんだ怒気は凄まじいものだった。それこそ、凄まれたら普通の人は動けなくなってしまいそうなくらいに。しかし、ティカと名乗った少年はただ笑うだけだった、おかしそうに。
「約束は約束だよ。それとも、ボクが雪を降らせされるってことを見せた方がいいのかなぁ?」
「雪を降らせることと、兄君さまの命に何の関係があるのですか!!」
「だって、勝手に降らせたらボクが怒られるんだよ、あの日は本当は降らせちゃいけない日だったのに。それを思えばそのくらいの代償くれないとね」
 怒りに狂いそうになる春歌と、それをただ見つめる正樹。そしてそれをおもしろそうに見ているティカ。
「そう決まっているのなら、今日降らせることはできないのではないのではないですか!?」
「ふふっ、冷静だね」
 そしてティカはそっと右手を春歌のほうに伸ばした。
「じゃあ、こういうのなら信じてくれる?」
「なっ!?」
 春歌は突然体が束縛されるような感覚を感じた。いつのまにか、春歌の足は宙をさまよっていた。
「面妖なっ……早く降ろしなさい」
「窓から?」
 いつのまにか、閉まっていたはずの窓は冬の冷たい空気を部屋に運んでいた。
 まるで地獄への扉のように、窓の向こうは暗く凍えていた。
「くっ……」
 春歌は歯を食いしばった。このまま何もできずに兄を見殺しにするしかないのだろうか……。自分の身を案じる気持ちなど、春歌には浮かばなかった。
「冗談だよ」
 突然春歌を拘束する力は消え、春歌は床に倒れた。立ち上がりざまに、春歌はティカの顔を激しく睨んだ。
「怖い顔しないでよ。信じてくれないからこうするしかないじゃないか」
 まったく悪びれた様子もなく、ティカは正樹の方を向いた。
「さてと、もうあと少ししたらクリスマスイブも終わっちゃうしね。約束の時だよ」
「知ってるよ……」
 正樹は今もティカを睨みつける春歌に手を伸ばした。
「約束は守らなくちゃいけない。僕は春歌に雪を見せられたんだ、それでいい」
 春歌の肩に乗せられた手は、春歌にはじかれた。
「……春歌」
 かすかに触れたその瞬間、正樹は春歌の肩が震えているのを知った。そして、それは今や見るだけでも震えが伝わってきた。
 はじいた手と、はじかれた手と……。
 その距離は、見た目よりもずっと遠かった。
 凍えた空気が肌を刺す部屋で、凛として宣言は響き渡った。
「雪を見たいと言ったのは、ワタクシです。たとえそれを、ワタクシが覚えていなくても」
「春歌、やめてくれ!」
 春歌の真意を悟った正樹は叫んだ。
「兄君さまの命の代わりに、ワタクシの命を」
 無我夢中で春歌をつかもうとした正樹の体は、自分のものでなくなってしまったかのように動かなくなってしまった。
「本人がそう言ってるんだ、そうしようよ」
 それは他人の不幸を糧にした微笑みだった。
 正樹は叫ぶことも叶わず、ただ動かない体で現状を眺めていることしかできなかった。
「兄君さま……」
 振り返る春歌の頬はきらきらと光り輝いていた。
 それは儚くて美しい、雪のように……。
 クリスマスに天使は舞い降り、そして去っていく……それはただのイメージでしかないけれど、よぎる想いは溶け、次々と形を変えていった。
「ワタクシのために、苦しい思いをさせてごめんなさい」
 それは心の痛みではなかったのに……。
 ただ体だけは、約束から逃げられないように痛むけれど。心の底から痛いなんて思ったことはないのに……。ただ、時々やってくる疲れのようにしか思っていなかったのに。
 それに比べたら、いまこの時はどれほど苦しいだろう。
 想いの一端を伝えることもできず、そして目の前で妹の命が奪われていく場面を見ているしかない……この状況を。
 心臓の音もノイズでしかないように、正樹は春歌の言葉に耳を傾ける。
「ワタクシの願いです、約束を守るのもワタクシです」
 違う、願いをかなえるように言ったのは自分だ……声にならない思いは、それでも春歌には伝わっているのだろう。
 ただ、お互いがお互いを思って……すれ違っているだけなのだから。
 二つの願いは、同時には叶わない。
 少年の手は、ゆっくりと春歌に触れた。
 力なく崩れていく春歌の体は、冷え切った床へ倒れた。
「春歌ぁぁぁぁぁぁ!!」
 呪縛が途切れた正樹は、ベッドから飛び降りようとした。けれど、それも一瞬……正樹は春歌の体に触れる前に硬直した。
 耳元にティカの囁きが聞こえる。
「一人じゃ寂しい?」
 ティカが今どんな表情をしているのか、正樹には確認することはできなかった。けれど、そんなことは関係なかった。いまは目の前に横たわる春歌のことしか彼の頭にはなかった。
「いっしょに死ぬ?」
 悪魔のような囁き……。
 この体が動くなら、春歌を抱きしめたい。そしてこの精霊に殴りかかっているだろう。しかし、それも叶わない。
「一人は寂しいよね……」
 落ちた声のトーン。
 そして、正樹の意識も闇へ溶けていった。


 あと数分で、クリスマスイブは終わる。
 奥行きさえ感じさせない闇の中を沈むように、その白き使者は舞い落ちていた。
 雪の精霊たるその少年は、闇の海を楽しそうに泳いでいた。
 薄い明かりが灯る病室の一室を、少年は眺めていた。
 固く結ばれた両の手の温もりを確かめるように、兄妹は寄り添っていた。
 舞い落ちる雪は、10年前と同じ……。
 その景色が、永遠に続けばいいと小さく願っていた。
 微笑みあう二人を満足げに眺め、少年は次の場所に旅立っていく。

 雪の精霊はいたずら好きで、演技がうまくて、嘘つきで………少し寂しがり屋だった。
 そしてまた一人、世界中に雪を運んでゆく。

 春歌編「Weather loop」了


葉坂沙希也さんへの感想はこちら
hasakasakiya@hotmail.com
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