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ひこうき雲

作・ベルナールさん


 ガラガラガラ

「ただいまー」
 兄は引き戸を開けて、家の中に入った。

「あっ! おにいたま、お帰りなさい!」

 パタパタパタ

 奥から雛子が駆けて来る。

「おっ、雛子、今日もいい子にしていたかい?」
「うんっ! ヒナ、おねえたまの言う事をよくきいて、わがまま言わなかったよ!」
 勢いよく頷く雛子に、兄はポケットにしまっておいたものを取り出して手渡した。
「そうかそうか。じゃ、いい子にしていた雛子にお土産だ」
「えっ!? なになに。わぁ、綺麗なお花だね」
 兄が雛子に渡したのは小さな雛菊だった。
「工場の近くに咲いてたんだ。雛子にピッタリだと思って摘んできたんだ。雛子、気に入ったかい?」
「うんっ! ヒナ、お花ダ〜イ好き。とってもうれしいなぁ」
「ははは。そりゃ良かった」

「あらっ、兄君さま、お帰りなさい」
 奥から割烹着姿の春歌が手を拭きながら姿を見せた。
「早かったですわね。今日は一日工場の方にいらっしゃるんじゃなかったんですか?」
「うん。本当はその予定だったんだけど、昼前に空襲があって材料が来なくなっちゃったんだ。学校に寄ろうかとも考えたんだけど、せっかくだから早く帰ろうかと思ってね」
 兄は手にしていた荷物を上がり口に下ろした。
「まあ、そうでしたの。そういえば確かに空襲警報のサイレンが鳴ってましたわね。やはり被害は市内の方ですか?」
「うん。このところ連日だよ。俺が行っている工場は外れの方だから被害は受けてないけど、市内から通ってきている級友の話だと、そっちはかなり酷くやられているらしい」
「そう…ですか…」
 春歌は目を伏せた。
「先月も東京で大きな空襲があって、大勢の人が亡くなったらしいし、福岡や大阪とか他の大都市も似たり寄ったりらしい。ラジオでは『敵は戦意を失いつつある』なんて言っているけど、本当に日本は勝っているのかな……」
 話しながらだんだん表情が暗くなっていった兄を、春歌は元気付けるように明るく励ました。
「きっと大丈夫ですわよ。先日もラジオでアメリカ相手に大戦果を上げたって言っていましたから、日本が勝つのももうすぐですわ」
「そうは言ってもなあ。敵の飛行機は我が物顔で飛んでくるし、とても勝てそうには思えないよ」
「兄君さま。こっちが苦しいときは相手も苦しいものです。この苦しさを乗り切ってこそ勝利に結びつくんですわ。みなさんもそうおっしゃってます。あとちょっとの辛抱だって」
「うーん……まあ、そうかな」
 兄が今一つ納得の行かない表情を浮かべながら視線を下に向けると、二人のやり取りを退屈そうに聞いている雛子の姿が目に入った。
 それを見た兄は、ふっと表情を和らげ、雛子に声をかける。
「あ、そうそう、二人ともお昼ご飯まだなんだろ? 俺も朝作ってもらった弁当をそのまま持って帰ったんで、一緒に食おうか」
「わーいわーい! おにいたまとお昼ご飯だぁ」
 雛子の表情がぱっと明るくなり、そのまま茶の間の方に走っていく。
 そんな雛子の様子を楽しそうに目で追っていた春歌は、兄の方に振り返りにっこり笑った。
「丁度良いですわ兄君さま。さっきお隣のおばあさまから、さつまいも を頂いたんです。蒸かしましたので一緒に召し上がりましょう」
「そうか。それは本当に助かるな」
「ええ。兄君さまからもお礼をおっしゃってくださいね」
「ああ。そうだな」
 そう言っている間に茶の間からは、待ち切れない様子の声があがる。
「おにいたまぁ。おねえたまぁ。お話ししてないで早く食べよっ。食べよっ」
 急かされた二人は顔を見合わせて思わず吹き出した。

 

 時は昭和20年4月。
 日本は、敗色濃厚になり、日本本土にも頻繁に空襲が繰り返されるようになっていた。
 兄と春歌と雛子は、さる地方都市から数十キロ離れたところにある町に、兄妹三人で暮らしている。
 兄は本来は学生だったが、戦況が厳しくなったために、学徒動員という形で地方都市にある工場で働かなければならなかった。
 また、春歌も学校に行かず、挺身隊として病院で奉仕活動を行なう傍ら、非番の日は庭にある畑の世話をして遅れがちな配給を補っていた。

 

「ねえねえ、おにいたまぁ。お外で遊んでー」
 昼ご飯が終ってくつろいでいる兄の手を雛子が引っ張る。
「ははは。わかったわかった。じゃあ、散歩にでも行こうか」
「やったー! おにいたま。ダ〜イ好き!」
 飛び上がって喜ぶ雛子を見ながら、兄は立ち上がって台所で食器を洗っている春歌に声をかけた。
「春歌。じゃあ、ちょっと散歩に行ってくるよ」
「えっ!? でも危なくありませんか? 兄君さま」
 兄の言葉を聞いて、春歌は眉をひそめる。
「空襲警報が解除されてからそれほど経っていませんし、噂によりますと、他の町では警報が解除された直後にまた飛行機が爆弾を落としてきた事もあるそうですよ」
「春歌、それは大都市の話だろう。こんな小さな町ではわざわざ二波に分けて爆撃するメリットは無いよ」
「それはそうですが……でも、やはりもしもという事を考えますと、心配になりますわ」
「ははは、春歌は心配性だなぁ。大丈夫だよ、いざとなったら雛子は俺が守ってやるから」
 春歌の不安を笑い飛ばして、兄は雛子の頭の上にポンと手を置く。
「おにいたま。ヒナのこと守ってくれるの?」
 雛子は頭に置かれた手を上目使いに見上げた。
「ああ、もちろんだとも」
「じゃあじゃあ、約束だよ。うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます♪」
「よーし。約束するよ」
 笑い合う兄と雛子を見て、春歌も思わず苦笑する。
「しょうがないですわね。気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、もちろんだよ」
「行ってきま〜す」
 二人は、見送る春歌に手を振って玄関を出た。

 門の前まで出たところで、兄は雛子の方を振り向いた。
「で、雛子。どこに行こうか?」
 雛子はちょっとの間考えていたが、すぐに元気よく答えた。
「おにいたま! ヒナ、丘に行きたい」
「丘か……そうだな。たまには良いかもな。よし、行くか」
「うん!」

 丘は市街地と反対の方にしばらく行った所にある。
 丘の麓は林に覆われ、その間を頂上に向かって細い道がぬうように続いていた。
 兄と雛子はゆっくりとその道を登っていく。
 耳を澄ますとコジュケイの鳴き声が聞こえてくる。
 ふと雛子が立ち止まった。
「あっ、見て、おにいたま!」
 そう言うと、道端にしゃがみ込む。
 兄が上から覗いて見ると、道の脇の叢に綿帽子を被ったタンポポが何本か生えていた。
「雛子。タンポポだね」
「うん! ヒナ、綿帽子さんをフーってするのが大好き!」
「そうか。それじゃ、揺らさないようにゆっくり摘むんだよ」
 雛子は、タンポポの茎の根本を慎重にちぎってゆく。
「うんしょ、うんしょ………わあ、キレイにとれたよ」
 せっかくの綿帽子を飛ばしてしまわないように、雛子はゆっくりと振り返った。
「あれっ? 雛子、フーってやらないのかい?」
 そのままタンポポを大事に抱えたまま、道を登っていこうとする雛子を見て、兄は不思議そうに尋ねた。
「えっとね。やっぱりフーってやるんだったら、丘の上からいいかなって思ったの」
「なるほど。じゃあ、頂上まで行こうか」
「うん!」
 兄と雛子は再び道を登っていった。
 丘の中腹で林は切れ、上の方は潅木の茂みになっている。
 ほどなく、二人は頂上に着いた。
 頂上は、ちょっとした広場になっていて、見晴らしも良い。
「それじゃ、これから飛ばすよー おにいたま、見ててね」
 雛子は精一杯背伸びをして、綿帽子に一気に息を吹きかける。

 フーッッッ………フワア……

 タンポポの綿帽子が小さくばらけて行く。
 そのうちいくつかは、風に乗って上へ舞い上がった。
「あっ、綿帽子さん、遠くへ飛んでいくよ」
 雛子は思わず手を伸ばすが、綿帽子は既に手の届かない上空を漂っている。
「雛子。綿帽子は、ああやって飛んでいって、その先でまた新しいタンポポを咲かすんだよ。気持ちよく見送ってあげようね」
「はぁい、おにいたま。綿帽子さーん。バイバーイ」
 雛子は、飛んでいく綿帽子に向かってブンブンと手を振る。
 やがて、綿帽子は空の中に溶けるように消えていった。
「雛子。そろそろ帰ろうか。春歌も心配してるだろうし」
「うん!」
 二人は丘を降り家路についた。

 

 何日後かの夜

 ゥゥウウウウーーーーー!

 夜のしじまを引き裂くようにサイレンが響き渡った。
 兄は飛び起きて、隣に寝ている春歌と雛子を起こす。
「二人とも起きるんだ! 空襲警報だ! 防空壕へ急げ!」
 飛び起きた春歌と雛子は枕元に置いてある非常持出袋を掴み、三人は近所何軒かで共同で掘った防空壕に急いだ。
 三人が壕に飛び込んだ直後に爆撃が始まった。
 凄まじい音と共に絶え間ない振動が壕を揺らし、隙間から白い光が漏れてくる。
 時刻は夜だというのに、外は真昼のように明るい。
 そのうちに、上空に聞こえていた爆音が徐々に遠くなっていった。
「やれやれ、やっと行ってくれたか」
 兄が入り口に近づいて、隙間から外を見ようとした瞬間、一筋の光が壕内に飛び込んできた。

(焼夷弾だっ!)

 兄は一瞬にして光の正体を悟った。
 反射的に光の行く手を追おうと振り返る。
 その光が飛んでいく先は……雛子だった。
 雛子の顔は恐怖に震え避ける事すら出来ない。

(もう間に合わないっ!)

 目の前で雛子に焼夷弾が突き刺さろうとしている。
 しかし兄にはどうすることもできなかった。

「あぶない!」

 素早く反応したのは春歌だった。
 春歌はとっさに雛子の上に覆い被さった。
 間一髪の所で焼夷弾は春歌の背中をかすめて行き、壁にぶつかり、跳ね返って床に落ちた。
 一緒に壕に入っていた近所の人達が焼夷弾を踏み消している間に、兄は二人に駆け寄る。
「春歌! 雛子!」
 衣類の焦げた匂いがする。
「うわーーん!!」
 雛子の泣き声がした。
「う、ううっ……」
 春歌の呻き声が漏れてくる。
 兄は二人を抱き起こした。
 雛子は、服が汚れていただけで、どこにも傷は無い。
 しかし、春歌は服が切れ背中にやけどを負っていた。
「春歌! 大丈夫か! しっかりしろ!」
「あ、兄君さま……雛子ちゃんが…無事で……よかったですわ…」
 春歌は背中の痛みにもかかわらず、笑顔を作った。
「おねえたま! おねえたま! 死んじゃいやーーっっ!!」
 雛子は、地面にぺたんと座り込んだまま、泣きながら春歌の手を握り締めている。
 兄は、大急ぎで春歌の怪我の状態を調べた。
 背中の火傷の具合を見て、兄は安堵の息をついた。
 火傷の範囲は少し広いが、命には別状無さそうだった。
 おそらく、何日間か静養すれば動けるぐらいには回復するだろう。
 しかし、怪我の軽さとは裏腹に、兄の表情は次第に厳しさを増していった。

 

 それから幾日か経った。
 春歌は驚くほどの回復を見せ、既に家事のような室内の作業は前と同じように出来るようになっていた。
 その夜、春歌が雛子を寝かしつけている間、兄は茶の間でちゃぶ台の前に座り湯飲みを握り締めていた。
 兄の胸にはある決意があった。

 春歌が茶の間に戻ってきたのを見て、兄は声をかける。
「春歌、背中の傷の具合はどうだい」
「おかげ様で大分良くなりましたから、もう元気一杯ですわ」
 春歌は力瘤をつくる真似をして二の腕をポンと叩く。
「そうか……春歌、あの時は本当にありがとう。春歌がいなかったら雛子はどうなっていたかわからなかったよ」
「何をおっしゃいます、兄君さま。あれぐらい大した事ありませんわよ。姉妹として当たり前の事ですわ」
 そう言って、にっこり笑う。
 ちゃぶ台の向かい側に座る春歌を見ながら、兄は努めて落ち着いた口調で告げた。

「春歌……俺は、軍隊に志願する事に決めたよ」

 一瞬、春歌の時が止まった。
 春歌は自分の耳が信じられなかった。

「えっ!? い、今、一体何とおっしゃられました?」
 かすれる声で訊き直す春歌の耳に、兄の落ち着いた声が再度響いた。
「軍隊に志願しようと思っていると言ったんだ」
「そんな……突然、どうされたんですか!」
 春歌には、今、何が起こっているのか全く理解できなかった。
 混乱している春歌をよそに、兄は静かに話を続けた。
「俺は、雛子に守ってやると約束した。そして、側にいれば二人をいくらでも守れると思っていた」

 ドンッ!

 兄はちゃぶ台を拳で叩き、口調を跳ね上げた。
「しかし、現実はどうだ! 防空壕の中に焼夷弾の破片が飛び込んできた時、俺は何もできなかった! 春歌がいなかったら雛子は死んでいたかもしれないんだ! ……だから俺は決めた。軍に入って敵を直接倒して二人を守りたいんだ!」
「兄君さま! 軍隊に入るなんて危険ですわ!」
 春歌は、兄がちゃぶ台を叩いた音で我に返り、必死に反対したが、兄は引き下がらなかった。
「ここだって空襲が来る。それを考えれば軍隊だってどこだって今さらそんなに変わらないだろう」
「しかし、兄君さま! 軍隊に入ったら、もしかしたら特攻隊に志願しなければならないかもしれないんですよ!」
 兄は、一瞬絶句する。
 しかし、ゆっくりと続けた。
「……もし、特攻隊に志願する事になっても俺は構わないと思っている」
 春歌は大きく目を見開いた。
「そ、そんな……」
「もちろん、俺だって死にたくはない。しかし、それで二人を守れるんだったら、俺は喜んで死ぬよ」
「いやです! ワタクシにはとても耐えられません! 兄君さま、そんな危ないところなんか行かず、一緒に居てくださいっ!!」
 春歌は躍起になって叫んだが、兄の決意は変わらなかった。
「いや、ここにいては、俺はお前達を十分に守ってやる事ができない」
「でも……それでもワタクシは、兄君さまに側にいてくださる方が嬉しいのです……ウウッ…」
 春歌は顔を覆って泣き崩れた。
 兄は、そんな春歌を優しく抱きしめた。
「……わかってくれ。春歌。俺はできるだけの事をしたいんだ。俺の我儘かもしれないが、悔いは残したくない」
 春歌は長い間俯いていたが、やがて、泣きながら頷いた。
「ウウッ……わ…わかりました…兄君さまが、そこまでおっしゃるならワタクシはお止めしません。でも……でも、できるだけ無事に戻ってきてください……お願いします…」
「大丈夫だよ。きっと無事に帰ってくるよ」
 しばらくして、ようやく泣き止んだ春歌は顔を上げた。
「兄君さま。雛子にはいつおっしゃるのですか?」
「……明日言おうと思っている」
「……そう…ですか……あの子、兄君さまがワタクシたちの側を離れると知ったら、きっと悲しみますわ」
「うん。俺もそれが一番気が重いよ」
 兄は立ち上がって、雛子の様子を見に行った。
 雛子はスヤスヤと寝息を立てている。
 そんな幸せそうな雛子の寝顔を見ていると、兄は、明日雛子に言わなければならない事を考えて、胸が痛んだ。
 兄は、溜息を一つつくと、自分も布団に潜り込んだ。

 

 次の日の朝、朝ご飯が終って春歌が片付けを始めた頃、兄はできるだけ穏やかに雛子に告げた。
「雛子。実は俺は軍隊に入ろうと思っている」
「えっ?」
 雛子は、一瞬キョトンとしたが、すぐに笑顔になった。
「わぁ! おにいたま兵隊さんになるんだぁ。ヒナうれしいなぁ」
「あれっ?。雛子は喜んでくれるのか」
 兄は、雛子の思いがけない反応に、ホッとすると同時にちょっとショックを受けた。
「うん! だって、兵隊さんになっておねえたまをヒドイ目にあわせたB29をエイヤッてやっつけてくれるんでしょ?」
「……うん。そうできるといいね。でも、雛子は俺が側からいなくなっても淋しくないのかい?」
「うー……それはもちろんとーってもサビシイけど……でもでも、ヒナ、ガマンするよ! おにいたまがいーっぱいがんばってるんだもの。ヒナ、それくらいなんでもないもんっ!」
「そうか、雛子はえらいな」
 得意そうに胸を張る雛子の頭を、兄はポンと軽く叩いた。
「エヘヘ……それでねそれでね。おにいたま、『えーれー』さんになるんでしょう?」

 ガチャン!

 瀬戸物の割れる音が辺りに響いた。
 春歌が、手から食器を滑り落とした音だった。
「ご、ごめんなさい。ワタクシとしたことが……」
 春歌は、慌てて割れた食器を拾おうとしたが、手が震えてなかなか拾う事ができない。
 兄は、動揺を隠し、努めて優しく雛子に問い掛けた。
「……雛子。『英霊』ってどういうものだか知ってるのかい」
「うん。ヒナ、みんなから聞いて知ってるよ。『えーれー』さんって、よくわかんないけどヒナやおねえたまを守ってくれるものなんでしょう? でね、兵隊さんだけが『えーれー』さんになれるんだよね?」
「……そう…そうだね」
 いつも通り明るく無邪気な雛子に、兄は苦しそうに返事をする。
「ヒナ、おにいたまに守ってもらえたら、うれしいなぁ」
 そう言って雛子はにっこり笑った。
 それを見た兄は、拳をギュッと握り締めた。
「……うん……俺は、雛子と春歌を守るために、兵隊になるんだ。きっと……『えーれー』になってでも守って見せるからな」
「やったー! おにいたまダイダイダーイ好き!」
 雛子が兄に飛びつく。
 兄はそんな雛子の頭を優しく撫でている。
 二人の様子を見ていた春歌は、下に散らばっている食器の破片を集める振りをして、そっと俯いた。
 春歌の目に映った破片は、次第ににじんで行き、じきに見えなくなった。
 その破片の上には、春歌の涙が雫となって落ちていった。

 

 兄が軍に入って数ヶ月ほどしたある日、春歌の下に兄からの葉書が届いた。
『検閲済』との判が押されたその葉書の内容は簡潔なものだった。

『基地より飛び立つ』

 それだけだった。

 しかし、春歌にはそれだけで十分だった。
 もう、兄が二度と戻ってこない事が、春歌にはわかってしまったのだから。
 でも春歌は、その事を雛子に告げることはできなかった。

 その葉書が来てから十日後、春歌は雛子の手を引いて丘に登る道を歩いていた。

 雲ひとつ無く晴れている。

 その丘は、いつか雛子が頂上から綿帽子を飛ばした丘だった。
 しかし、その時あった林や潅木の茂みは今はもうない。
 春歌が背中に怪我をした空襲の日に、全ては焼けてしまった。

「おねえたまとお出かけするなんて久しぶりだぁ」
 雛子が嬉しそうにはしゃいでいる。
「そうね。最近は空襲ばっかりでなかなかお外に出られなかったものね」
 春歌も穏やかに微笑んだ。

 ゆっくりと丘を登っていく。

 雛子が兄とたんぽぽを見つけた叢も灰になってしまって見る影も無い。

 やがて、丘の上につく。

 周りはとても静かだった。

「ねえ、おねえたま。こんなところに来てどうするの?」
 雛子が不思議そうに首を傾げた。
「あのね。待っていると良いものが見られるのよ」
 春歌はゆっくりと答えた。
「イイモノって?」
「それはね。見てのお楽しみよ」
「なんだろう。わくわく」

 それは、北の空にいくつかの点となって表れた。

 爆音と共に、次第に二人の方に近づいて来る。

「あぁ! いっぱいいっぱい、飛行機さん飛んでる」

 腹に爆弾を抱えた零戦の編隊が春歌と雛子の頭の上を通り過ぎようとしていた。
 飛行機は南へ向かっていた。

 ふと、その中の一機がかすかに翼を振った。

(……っ!)

 春歌は直感した。

(あれは……きっと兄君さま……だ…)

 くいくい

 その時、雛子が春歌の服の裾を引っ張った。
「ねえねえ、おねえたま。あの飛行機の中のどれかにおにいたまが乗ってるんでしょ?」
(えっ!)
 春歌は心臓が止まりそうになった。
(雛子ちゃんには、兄君さまが飛ばれることを絶対教えないようにしていたのに)
(どうして……)
「おねえたまが、ヒナに飛行機を見せてくれたのは、おにいたまが飛んで行くところを見せたかったからだよね」
「……そ、そうね」
 春歌は観念して頷いた。
「きっと、おにいたま、敵をエイってやっつけて、ヒナのこと、守ってくれるんだよね。それで戻ってきたら、いっぱいいっぱいお話を聞かせてもらうんだぁ。ね。おねえたまも、一緒にお話聞こうね」
 にこやかに同意を求める雛子が、春歌にはどうしようもなく哀しかった。
 春歌は真っ直ぐに自分を見つめる雛子の視線から目を逸らすようにして、なんとか言葉を絞り出した。
「…う、うん……わたくしも…楽しみに…して…ます……わ…」
 飛行機は、見る間に目の前を通り過ぎていった。
「あ! おねえたま! ひこうき雲だよ」
 飛行機が通り過ぎた後には、幾筋もの飛行機雲が刷毛で刷いたようにうっすらと残っていた。

 春歌にとっては、それは兄がいたことを表す最後の痕跡だった。

「雛子ちゃんっ!!」

 春歌は、しゃがみこむと、正面から雛子の肩を掴み、真っ直ぐ目を見た。
「ど、どうしたの。おねえたま。お顔が怖い……」
 突然の春歌の変わりように雛子は怯えていたが、春歌はそれに構わず強く語りかけた。
「いい、雛子ちゃん! あの飛行機雲をよく覚えておくのよ! 決して……決して忘れないでね」
「う、うん……わかったよ…」
 雛子は急に様子が変わった春歌に不安を感じながらも頷いた。
「そう、いい子ね……」
 春歌は雛子をギュッと抱きしめた。
「よく…よく覚えておくのよ……う…ううっ…」
 雛子からは見えないように顔を向けていた春歌の目からは涙が溢れていた。
「おねえたま……もしかして、泣いてるの?」
 雛子はちょっと首を傾げた。
「ううっ…ううん……泣いてなんかないわ……だって、兄君さまは……戻って……きっと、戻ってくる…ですもの……悲しい事なんて…ない…わ…」
「うん! おにいたまが、帰ってきた時まで泣いてたら、おねえたま、泣き虫さんだと思われちゃうよ」
「うん……うん…そう…ね……でも…今だけは……今だけは…このままで……いさせて……ううっ…」
「じゃあ、今はおにいたまの代わりに、ヒナがいーこいーこしてあげるね」
 雛子は春歌の頭を優しく抱き寄せ、ゆっくりといつまでも撫で続けた。

 

 上空を棚引いていた飛行機雲は、

 

 しだいに薄くなっていき、

 

 そして……消えた。

 

 〜完〜

〜 あとがき 〜

 というわけで歴史物です。
 ただ、わたしの知識だけで書いていますので、間違いも多々あると思います。
 また、話の都合上、あえて史実と異なる設定にしている点もあります。
 その辺りは、できれば広い心で許してください(笑)

 しかし、改めて読み直すと、兄妹の話というより、なんだか若夫婦とその幼い子供の話みたいになってしまいました。
 うーん……どこでどう間違えたのでしょう(笑)(2002/2/13)



ベルナール様への感想はこちら
bernard@mengelberg.net
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