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真新しい生活への座標



日々の生き方。日常の中に感じる取る根元的世界観。絶対的コスモロジーの探求。

2001/11/12
私のなかの「時のカタチ」(1)       オンピト

 「時のカタチ」とは、朝日新聞文化欄のコラム(火・水・木・金)の名称です。
 先週は写真家石亀泰郎の登場でした。
 日曜版連載の最終回327回目は、パプアニューギニアの男の子二人が、手を振ってさよならをしている写真だ。・・・・と、コラム欄の4日目のエッセイには記述されていました。パプアニューギニアの活字を見逃す法はない。私にも、そのシーンと重なる体験があるはずだ。(HP 南からの風1・・・パプアニューギニアからの友)
 コラムには写真はない。その日のうちに、メールアドレスを探し出して問い合わせました。
1.パプアニューギニアの旅、または男の子二人について、記事、記録入手の方法。
2.日曜版連載(朝日新聞)の最終回目の年月日。
             以上2点について、お知らせください。
 メールRe:が入りました。
     石亀泰郎(Ishigami Yasuo)
朝日新聞日曜版「やあ小さな仲間たち」の最終回は1993年9月26日です。  http://www.ne.jp/asahi/ishigame/photo-gallery

早速HPを開いてみました。われらが写真家たつあんみたいに、いろいろな項目がありました。「世界の子どもカレンダー」「エッセイ」「Post Card」「著作紹介」「ぼくのこと」。
・・・・「著作紹介」のなかには、私が見たと同じコラム欄記事が、当然のことながら、そっくりそのまま載っていました。その上、ここには待望の写真が載っているのです。
 「長期連載を楽しんでくれた読者にさようならをいうつもりで、この写真を使った」というのです。本当は子どもがぼくにさよならをしているところだ、というのです。二人とも笑っているが、よく見ると目に涙が光っている、のです。すごいおどけた顔をして、泣きじゃくりの子どもたちをやっとのことで笑わせた、ともあります。胸を打ちます。

 セピック河畔の村々を小さな船で訪ねたこと、蚊がすごかったこと、
船には、燃料油のドラム缶を一本積み毎日走り回ったこと、操縦してくれたのは土地の若い男で、二人の子どもは、そんな船にもぐり込んで離れなかったこと、そしていつの間にか有能なぼくの助手になってしまったことなどが超感動的に、飾らない率直な文で綴られていました。

 日曜版最終回の記事も、ぜひとも見たい。生憎今日は月曜で休館日です。明日行ってコピーしてきます。(2)でその要点をもっともっと詳しくお伝えします。9月以来の久々の投稿です。




2001/11/12
私のなかの「時のカタチ」(1)       オンピト

 「時のカタチ」とは、朝日新聞文化欄のコラム(火・水・木・金)の名称です。
 先週は写真家石亀泰郎の登場でした。
 日曜版連載の最終回327回目は、パプアニューギニアの男の子二人が、手を振ってさよならをしている写真だ。・・・・と、コラム欄の4日目のエッセイには記述されていました。パプアニューギニアの活字を見逃す法はない。私にも、そのシーンと重なる体験があるはずだ。(HP 南からの風1・・・パプアニューギニアからの友)
 コラムには写真はない。その日のうちに、メールアドレスを探し出して問い合わせました。
1.パプアニューギニアの旅、または男の子二人について、記事、記録入手の方法。
2.日曜版連載(朝日新聞)の最終回目の年月日。
             以上2点について、お知らせください。
 メールRe:が入りました。
     石亀泰郎(Ishigami Yasuo)
朝日新聞日曜版「やあ小さな仲間たち」の最終回は1993年9月26日です。  http://www.ne.jp/asahi/ishigame/photo-gallery

早速HPを開いてみました。われらが写真家たつあんみたいに、いろいろな項目がありました。「世界の子どもカレンダー」「エッセイ」「Post Card」「著作紹介」「ぼくのこと」。
・・・・「著作紹介」のなかには、私が見たと同じコラム欄記事が、当然のことながら、そっくりそのまま載っていました。その上、ここには待望の写真が載っているのです。
 「長期連載を楽しんでくれた読者にさようならをいうつもりで、この写真を使った」というのです。本当は子どもがぼくにさよならをしているところだ、というのです。二人とも笑っているが、よく見ると目に涙が光っている、のです。すごいおどけた顔をして、泣きじゃくりの子どもたちをやっとのことで笑わせた、ともあります。胸を打ちます。

 セピック河畔の村々を小さな船で訪ねたこと、蚊がすごかったこと、
船には、燃料油のドラム缶を一本積み毎日走り回ったこと、操縦してくれたのは土地の若い男で、二人の子どもは、そんな船にもぐり込んで離れなかったこと、そしていつの間にか有能なぼくの助手になってしまったことなどが超感動的に、飾らない率直な文で綴られていました。

 日曜版最終回の記事も、ぜひとも見たい。生憎今日は月曜で休館日です。明日行ってコピーしてきます。(2)でその要点をもっともっと詳しくお伝えします。9月以来の久々の投稿です。




2001/09/23
(12) 私だけの岡本太郎!(最終回) オンピと

 岡本太郎が絵を描く現場のシーンをテレビかなにかで見たことがあるが、筆をもったまま、遠くから襲いかかって、まるで戦場に飛び込むような凄まじさがあった。理知と感性が火花を散らせているんだろう。高貴と野卑、無邪気さと狡知、叫びと静寂等、ときには民族の仮面や、縄文土器の火炎,水炎がぶっとびぶっかりあって、そこから立ちのぼる放電に、生きるエネルギーの源泉を求めていたのだろう。
 だから、いきなり立ち上がって、私に銃剣の矛先を向けるような仕草をしたときには、私は呆然とした。
 なんの前触れもなく、とつぜんこんなことを唐突に切り出したら、「いったい、なにが、どこで、なんの故あって???」と、びっくり仰天してしまうかもしれない。でも「私だけの岡本太郎!」はその状況下で出会えたのだった。後にも先にもFace & Faceで言葉を交しあったのは、言うまでもなくそれが初めてであり、最後だった。最高の幸運だったとしか言いようがない。

 いつ、どこで・・・。私が28歳のころだから、1954年前後だった。当時アバンギャルドという言葉は聞きかじっていたが、岡本太郎の「夜の会」も「アバンギャルド研究会」(本郷・喜福寺)も、それこそ知る由もなかった。ただ、数年前、上野の美術館につながる石段のまえの通りで、聴衆にむかって、トラックの荷台を壇上にマイクで演説をしている光景は、一人田舎のおのぼりさんを、まるごと畏敬の念で虜(とりこ)にしてしまい,以来岡本太郎の絵と言動に強烈な刺激を受けていた。だから諏訪の教育会(あるいは美術部会だったかもしれない)主催で、岡本太郎の講演会がある、という知らせをうけて、心は踊り体は勇みたった。
 でもこれが講演としては、意表をついた、奇妙としか言いようのない変ったものだった。演壇の前に立ったまま、相当な長い時間、身じろぎもせず会場いっぱいの聴衆を凝視している。言葉を発せず睨んでいるといったほうが、この場合適切だったかもしれない。
「問いたいことがあれば、それに答える」
・・・・・・・・・・・・・
 どんなやりとりがあったか、いまは全然想い出せない。
 どこかの心の片隅で、どうしても満ち足りない気持があったことだけは確かである。「懇親の二次会がある」ということで、その会場である温泉旅館へ行った。酒肴を前にして、ややくつろいだ雰囲気であったが、ここでも「質問があれば」という岡本太郎の基本姿勢には変わらなかった。
 ある会員が発言した。
 「センセイ、この部屋は襖を外してあるのです。そのときの使い方次第でこじんまりなったり、広くなったりもします。センセイ、日本の部屋のつくり、取り外し自由の空間っていいでしょう」
 「良いものは良い。悪いものは悪い。」
 この応答のやりとりに聴衆から笑いが起こったようだった。

 私は、この場当たりしきな安易な質問に憤懣やるせなかった。しかも
なんで、ここで笑わなければならないのか。このままの雰囲気で、時間だけがざわざわと流れていきそうな予感がした。岡本太郎がここにいる存在理由がない。火花を散らすような、あの緊迫した対極主義の放電エネルギーの切り口をどこかで開放させてやらねば。私がここにきた意味もない。私は前後の見境もなく発言した。
 「岡本太郎は日本という、とくにこの戦後の場当たりの、事なかれの、中途半端の、身勝手な近視眼的な安全志向のなかで、面白おかしくあつかわれている。岡本太郎の芸術は、そうしたいまの日本の風潮のうえにたって、その矛盾をうまく利用して生きている。または利用されている・・・」
 岡本太郎が、すっと立ち上がったのはその時だった。さっと私の方に体を向き変えた。そして銃剣をかまえる仕草をした。その矛先はまともに私に向けられていた。
 「わたしは中国の戦場に立った。最前線にこうして立ったのだ」
   (岡本太郎はフランスから日本に帰ると、二等兵として召集され
   中国の最前線に立たされたのだった)
 私は戦慄した。そして感涙した。
 一瞬あたりは緊迫した空気にシーンとした。いろいろな思惑が交錯して宴会の席は静まりかえった。その後どんな流れになったかはまったく覚えていない。ただ司会者がイヤな目つきをして、私の質問に苛立ちを隠しきれず見上げていた。「なんて迷惑なことしてくれたのか」と言いたげな表情だけは今でも鮮明に覚えている。かれは人格者と噂された美術教師であり後に校長になった。

 これが「私だけの岡本太郎!」なのです。
 いまとなっては、この1回こっきりの「私だけの岡本太郎!」は、私のなかで大切な、大切な宝ものなのです。
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 (1)から(12)まで、長いシリーズものになってしまいました。貴重なページのスペースを独り占めしてしまいました。管理責任者のたつあんに心よりお礼します。多謝々々です。 
         どうもありがとう。


2001/09/22
(11)ピカソと実験工房       オンピト

 私にとってピカソ、1951年とは?と大見得きっても、そして「ピカソ祭」東京展/読売新聞社主催:(1951)といっても、正真正銘の焼け跡派であった私にしてみれば、その日暮らしにも事欠きながら、新宿あたりをうろつく彷徨坊主にすぎなかったから、眩いばかりの憧憬と、垂涎の眼で一枚のポスターに魅入るより他なかった。それは正しくはポスターでなく1951−「ピカソ祭」プログラム表紙であった。いま年齢だけは74歳を生きぬいてきて、「実験工房と瀧口修造」(第11回オマージュ瀧口修造展 1991年7月8日ー31日/発行:佐谷画廊)の貴重な資料を開くと、まだ若い精悍なピカソの顔が飛び込んでくる。11月・・・ピカソ祭「生きる悦び」(実験工房第1回発表会)(16日、日比谷公会堂)とある。瀧口修造の同プログラムに寄せた「生きる悦び」は、次のような紹介の冒頭ではじまる。
 「ピカソは大戦(第二次世界大戦)の翌年の1946年に南仏海岸アンチーブの古城で制作に没頭します。久しぶりに大自然にふれて若さをとり戻したの琴線にギリシャの神々の笑いや角笛の音が共鳴したのでしょう。ここに稀に見る清澄な牧歌的連作が生まれたのですが、その中の大作に誰がつけるともなく「生きる悦び」という題がついてしまいました。・・・

 実験工房第1回発表会は「ピカソに捧げるバレー/展覧会の絵を抜けだし踊るニンフや牧神」で公開された。この前夜祭ではほかにピカソ関連映画二本の上映、詩の朗読、ピカソ会見談も行われた、とある。そして「ピカソ祭」を報じる「読売新聞」(1951年11月17日)には「名画を踊る/”ピカソ祭”賑わう」とある。因みに音楽の指揮は武満徹であった。(第2回発表会「現代音楽演奏会/市ヶ谷・女子学院講堂)ではオリヴィエ・メシアン「世の終わりのための4重奏曲」/演奏=園田高弘(ピアノ)他・・・が、造形部門メンバーにより構成的な
造形を舞台に設置された控え目な照明によって会場の雰囲気が演出された、ともある。
 実験工房は謙虚に仕事で結びついた20代の青年芸術家の集まりであり、しかもそこでは音楽や造形芸術や詩の世界が図らずも結びついていることは実に貴い芽生えだと信じている、と「実験工房」の名付け親である瀧口修造は「実験の精神について」(実験工房第2回発表会プログラム、1952年1月)のなかで述べている。そこでは舞踊、映画、オート・スライド、テレビ・ビデオといった視聴覚の総合芸術にかれらのめざす新しい芸術の実験領域が無限にひろがっている・・・・と。
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 本当のところピカソについては、まだ語りたいことがいっぱいある。
なんでピカソは裸が似合うかとか、「アヴィ二ヨンの娘たち」を描いたピカソを襲った直接的な衝撃とは、とか。プリミティヴィズム(特にオセアニア美術について)に出会ったことの衝撃とは・・・
 1956年度カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞した「ピカソー天才の秘密ー」/クルーソー監督作品。まさに二人の天才の幸福な出会いの結果とも言われる息もつかせぬ迫力、作品の形態が止まるところを知らずに新たな形態を生む、形態のダイナミックな変貌のドラマ。
 
 そしてピカソ八十七歳。三月十六日から十月五日までの期間に異様なスピードで描き出された「版画集三四七/銅版画」(俗称<エロチカ>)・・・ピカソは画狂人と呼ばれた九十歳の北斎と同じようにあらゆる実験に身を投じ、なにものをも拒まなかった。北斎の即興性がピカソをひどく面白がらせた、とも言われている。
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(11)まできて、私はハタと反省しました。多分にアイディアの組み立てだけが先行して、独断と偏見だけが目立つこのシリーズものを、こんなにまでも傍若無人に独り占めしていいものだろうか、と。
(12)で完結したいと思います。タイトルは「私だけの岡本太郎とは!」です。      (12へ)  


2001/09/21
(10) サティから私の中のピカソへ    オンピト

 まず訂正から。1912年代は1917年。
 1898から1925・・・死去するまで住み、終生独身のまま、誰が訪ねても扉をあけなかったサティ。山高帽に固いカラー、こうもり傘の紳士は、きまって かってのモンマルトルの常連が集うモンパルナスの、一見華やかな「喧騒」のなかに姿を現すが、夜がふけ、劇場の灯が消えると、徒歩でアルクイユの道を帰っていった。
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 音楽から音を開放する、サティの行為は、ジャン・コクトーが「ハンモックや、花輪やゴンドラは、もう沢山だ! 家みたいに、僕が住める音楽を建ててもらいたい。」と言うように(深夜叢書:エリック・サティ)、著しく簡潔(シンプリシティ)で、一見どこからでも入っていける素晴らしい平衡感覚を導きだす・・・・その感覚こそ、環境音楽の原点である。住んで生活できる環境・・・・映像から詩、絵画、音楽、etc・・。森の詩人ヘンリー・D・ソローはウォールデン湖の畔の森に自らたてた小屋で生活したが、モンパルナスの劇場の灯から、往き帰りをテクるサティのアルクイユの道は「森の静寂」と重なっていた。現代的な虚飾には吐気を催し、ソローと同じように森の奥で木を伐って、簡素に、清く、明るく住もうと、進んで身を慎んでいた。
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 ではピカソは??
 私のなかのピカソでは、「ピカソ祭」東京展/読売新聞社主催:(1951)が初めての出会いだが、1917年に、ヨーロッパ祝祭的世界(20世紀初頭)の渦に先駆けた、その大いなる”びっくり箱”・・・サティ作曲(バレー)「パラード(英語のパレード)」が、ひそかに公衆の注目をひいていた。なんといっても圧巻はピカソの装置と衣裳であった。台本作家ジャン・コクトーの意表をついて旅芸人の一人のマネージャ役の背中にニューヨークの摩天楼(マンハッタン)を背負わせてしまった。国境の境が取っ払われて、「パラード」初演はロシア・バレー団長のディアギレフ一座の舞踊団であった。
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 1951年に行き着く前、ピカソはポール・エリュアールの自作朗読レコード「エリュアールの声」のレコード・ジャケットに挿絵を載せている。ピカソ描くエリュアールの肖像デッサンとともに「エリュアールの声」は1954年度のディスク大賞を受賞した。
「私は書く お前の名を」の繰返しのある「「自由」は「詩と真実」(1942)の一篇であって、どれもドイツ軍占領中に書かれたものである。単純な言葉で書かれたこの抵抗詩は、口から口へつたえられ、人々に希望と意志の火を点じたといわれている。占領中に秘密裡に録音されたのだという。「自由」の部分などとくに声の調子が落ちているのはそのためかもしれない。当然地下での録音だから、上を歩くゲシュタポの靴音までが、つい聞こえてしまうのだった。

 私はそのドーナツ盤をもっている。紀伊国屋から取り寄せたものだった。
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 さて、私の中でのピカソ、1951年とは。(11へ)


2001/09/19
(9)鶴ヶ島と山口昌男

 その今福龍太が北海道の札幌大学で、同じ文化人類学者の山口昌男(学長)の「踊る大地球」(晶文社)をYahooの検索で紹介(もう2年くらい前)しているのを知ったのは、ごく最近のことであった。
 9月9日の鶴ヶ島市国内外交流「あいあいフェスティバル」の直前だった。PNG(パプアニューギニア)舞踊団に触れたいばっかりに、私は「イナ イナ(セピック上(中)流域クォマ村の祖霊歌)ありがとう ありがとう 踊る大地球 US YOU ME」と5メートルの木綿の白地に墨書したのだった。そこには私なりの出会いの経緯が伏流していてのことだった。

 山口昌男はご承知のとうり歴史学・神話学、さらには演劇・文学・映画・音楽等の異分野にまたがる自在で横断的な想像力を機動力として新たな人類学をたった一人で創造しようとしている学者ですが、それは異質な事象のあいだに隠された文化的なつながりを見いだす知の「発見法」としての人類学の本質を開示しようという、文化の「未知」の可能性を探り当てようとしているのですが、そのテーマ性を「権威」という地点からはもっとも対極にある「道化」という文化史的なテーマを、知識人や芸術家のもっとも刺激的なあり方として称揚する思想へと高めてゆく・・・・・まさに「道化的」としか形容のしようがない機知とユーモアと、冷静な自己対象化の意識がはっきりと感じられたからこそ、びっくり仰天されっぱなしで、魅了され尽くしていたのだった。
 
 イタリアの民衆喜劇やシェイクスピア劇の道化、あるいはチャップリンやキートンを論じ、これらの道化が、人間の文化的表現が持つ「道化」というスタイルを、徹底した他者への風刺とともに、根底的な「自己批評」としても活用し尽くしたという刺激的な視点が、なんとも魅力的なのだった。
 しかも、すぐれたドロウイングがあるなんてことすら、私は知らなかったのだ。すでに『道化の民俗学』のなかにも、フランスの画家ジャック・カローや詩人ジャン・コクトーらの戯画的な素描や版画がたくさん使われているというのだ。自画像に示される「挿し絵」以上の意味を持つとされたそれらの素描は、いわば山口の人類学が隠し持つ「自己風刺」という志向性をすら指し示しているというのだ。機知に富んだ身軽な道化役者の精神が、それらの素描にはめ込められていて、学問的知識が、専門化された権威としてではなく、自己と世界とを根底的な「内省」と「批評」とに巻き込むダイナミックな思考の場であるということであれば、いま74歳の私の人生にしてみれば、最高の出会いの一つであると一人合点しないわけにはいかなかった。
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 それに加えて二つの極めて重要な出会いがある。

一つは、昨年鶴ヶ島のPNGコレクションの現場にヨシだヨシエ氏のお誘いで来ていること。そのことは市教育委員会編の「ニューギニア 神と精霊のかたち」(昨年9月渋谷の塩博企画展「くらしの中の神々〜パプアニューギニアの民族のかたち〜」の折刊行紹介、好評)のなかで次のように明記されている。
「私は偶然銀座の一画廊でお会いしたヨシダ・ヨシエ氏の紹介で鶴ヶ島を訪れ、その所蔵品を見て腰を抜かすほど驚きました。主にセピック河流域に生まれた民族芸術を、大仮面、大彫刻から生活の細かい用具に至るまで大量に所蔵しています。民族芸術の様々なレベルの芸術品が、系統的に細密に分類されて収蔵されているのは稀なことです。」

 それ以来山口はヨシダ・ヨシエ氏をオセアニアの祖霊像やアニミズムに現在入れ込んでいる稀有な人物として度々推奨している。そのヨシダさんも僕と四つ違いだから、5月には70歳になっているはずだ。
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 二つ目は、上記刊行物で知ったことだが、あの論文集「異人その他」(岩波文庫 青 196-1)の岡正雄が旧師だった、という事実。戦中南方を度繁く視察しウイーン大学で民族学博物館のオセアニア・コレクションに対する充分な知識から、大阪での万博に際して誕生した民族学博物館の展示資料の礎にもなった、という事実。自分のことのように嬉しかった。だって、一昨年から昨年にかけて、鶴ヶ島のアートフェスに中川晶一朗さんと「龍の舟唄」をプロデユースするについて大いに「異人その他」は「古代日本の航海術」(茂在寅男:小学館ライブラリー)ともあわせて、なにかと話題になった。日本文化の形成論を中心に、ほんとに素人でもよく見えるかたちで巨人の全貌を伝えていてくれているのだった。その辺から日本列島みな一つ。さらに「東西南北 みな一つ」を私なりの地球往来のキーワードの一つにするようになった。

 その山口昌男が札幌大の学長就任式に大演説を学生にむかってしてくれるものと思いきや、演壇上のコップを飲んだか飲まなかったか、くるりと背を向けるやいなや、背後の板壁にむかって、右に左に板を打ちながら、なにやら風水論的パフオーマンスを演じているようだった。まわりのお偉らがたは呆気にとられたが、学生達は大喜びだった。この学長だったら、なにかやってくれそうだと、その瞬間めいめいが思った。まもなく学長室が開放された。その時々のギャラリー展示室に変貌した。
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 次はピカソです。私の中のピカソです。
1912年代のピカソに触れることから始めます。奇人作曲家・音楽家と言われたエリック・サテイーの舞台当時です。(10へ)



2001/09/17
(8)一つのアプローチ      オンピト

すっかり記憶が薄れてしまって、確認できないのだけど、確か山口昌男は東北の一寒村の廃校だったか、旧屋敷だったかを自分の書庫(手づくり資料館)で暮らしていた一時期があった。その記事を見た瞬間(朝日新聞?)、なにかひどく体中に電気が走って感動した覚えがある。
 トリックスター・・・つまり「道化」という文化的テーマを知識人や芸術家のもっとも刺激的なありかたとして称揚する思想へと高めていく、私などのような凡俗な人間には想像も出来ないような語りで、次々に世界を舞台に対談する(岩波書店の<世界>対談シリーズ)該博なコトバのやりとりの自在性に度肝を抜かれていたから、都市から遠く隔った一寒村で・・・の記事には、まるで移動しながらの、もっとも現代的な地球規模の、ある種の修行僧の出現ではないかとさえ思った。
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 数年が過ぎた。
 今福龍太という文化人類学者の「野生のテクノロジー」(岩波書店)を私がパプアニューギニアへ行く直前鶴ヶ島在住の美術評論家ヨシダヨシエ氏から渡されてから、なんとなく「21世紀への帆立て」作業に入るんだ、一つの実験、極めて飛躍したコトバで言うならば自己人類学/
セルフ・アンスロポロジスト=生活者=アートの立場である、といったとてつもない大袈裟な自負心が、人と自然を織りなすミクロコスモスの世界で、想像力のなかで、いよいよこれからの新たな航海術にかかわる問題として浮上させるんだ、といった好奇心を誘発するひきがねになったのだった。自然とそんな気になってしまったのだった。(9へ)


2001/09/15
(7)ニューヨークそしてアメリカ     オンピト

 日本時間10日の深夜、同時多発テロのマンハッタン世界貿易ビルとワシントンDC.ペンタゴン突入爆破から、毎日現場からのショッキングな情報がとどくなかでの投稿になってしまった。

 いまから32年前、棟方志功がジャパン・ソサエティー(ロックフェラー財団が金を出している)の招きで、ニューヨークを中心にした大学その他で、日本板画についての講演をしたり、デモンストレーションをしたときのエピソードである。
 そのころアメリカを風靡していたビート・ゼネレーションの人々を相手にして講演した折のことである。みんなビンからアゴにかけて細いヒゲを生やしていて、それが一つのトレード・マークのようになっている。そして一様に薄着をして、ちょっと日本でいう「行者」のようなスタイルをしている。僕(棟方)が行ったら大いに歓迎してくれたのはいいのだが、僕のことを禅の大家か何かと勘違いしているらしく、いきなりツーッとそばに寄ってきて、指を噛んだりされたのには胆を冷やした。敬愛の情を行動に現わしたとでもいうのであろうか。
 青春時代のわたくしが、やはりああした異様なスタイルで、直接的な行動に出たりして自己満足していたことを思い出した。ちょうど僕が青森から東京に出てきたころ(中略)・・・ニューヨークにきて、そうした自分の若さの時代を回想するなどとは、まことに意外な思いであった。
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 僕はアメリカ語は喋れない。もちろん通訳つきでやったわけだが、ぼくの日本語自体が通訳に通じないらしい。そういうときには、手を挙げたり、胸をさしたり、腹をなでたり、目を開いたり閉じたりする。それが馬鹿に調子がいいらしい。つまり話にきく禅問答みたいなもので、わけがわからなくても、聴衆には何かが伝わるらしい。僕が手を挙げると、あれは、高い山を意味するんだとか、胸をさすと、あれは無限の空間を切っているんだろうとか思ってくれる。通訳が「そうですか」と聞くから、「そうだ」といって済ましている。だから僕が語るというよりも、まあパントマイムなのだ。聞き手の方が僕から何かを引き出そうとしてくれたというのが実際なのだ。おかげで講演は予想外に成功だっ
た。
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 アメリカというのは、結果の性質が非常に生き抜いていくところなど、非常に直接的に出来ている。味とか、アクとか、クセというものではない、非常にきらめいたもの、凛としたものが感じられた。それを僕は非常にりっぱなことだと思って、ありがたく承知して帰ってきた。
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 先を急ぎましょう。青森からもともっと北へ行きましょう。山口昌男の「踊る大地球」まで行きましょう。(八へ)


2001/09/03
(6) 熊の子と裸 オンピト

 「天才の秘密」、その身体性が問うもの<茅野市美術館特別企画展「棟方志功展」>寄稿の図版は、私のHP<森のオンピト><Onpito's Space>(Recently 最近の出来事)9月3日に載せてあります。同時発信で相互にリンクしあっているので、こちらの方も見てください。
 ここでは、寄稿記事のなかから3っつのエピソードを抜粋します。
1.柳(宗悦)をはじめ河井寛次郎や濱田庄司(いずれも陶芸家で民芸の共鳴者)がいつからか敬愛をこめて呼ぶように、いわば「熊の子」的存在だった。極度な近眼で、眼鏡の奥の大きな眼をぎらぎらさせ、汗を流し、唾を飛ばし、時には踊り上ったりして話すように、現わされたものも汗を流し、唾を飛ばし、躍り上るかのようだ。(河井) そこから、(5)で触れた「君のものを見ていると、人がかって山野を駆け廻っていた時の荒魂が頭をもたげる。君は確かに人々の中に隠れている荒魂を呼び返す人だ」にいきつく。

2.後に彼が青森に生まれた事を知りましたが、彼は必定アイヌの子孫だと思うようになりました。毛むくじゃらで、見るからに変わっています。普通の大和人ではありません。もっと原始的な直接的なところがあります。言葉などで挨拶するのがもどかしく、直接行動してしまうようなところがありました。何時とはなしに濱田と共に「熊の子」と呼ぶようになりました。(中略)河井は、案の定棟方がすっかり気に入り、京都に連れて帰ると言い出しました。まもなく家へ「熊の子連れて何日帰る」と打電したそうです。驚いたのは家の人達で、熊の子をどうしたものだろう、柵でも用意しなければいけないかと心配したそうです。棟方も長く居ついて、暫くそのまま河井の所に滞在しました。(柳)

3.棟方はかって、大原孫三郎翁の依頼を受けて、六曲の屏風に絵を描くことになり倉敷市酒津の邸に招かれた。白の六曲屏風が部屋いっぱいに拡げられ、武内夫人は墨磨りや絵の具とき、筆と刷毛、筆洗、文鎮その他、万端を注意深く整え行儀よく傍らに座って、棟方の仕事を待っていた。頃はちょうど夏。棟方は例のごとく真っ裸になって一気に描き上げたかった。とうとうたまりかねて、棟方はひとまづ御不浄に立った。戻ってみると、ありがたいことに奥さんも主屋の方に一寸行かれた様子。棟方はこの時とばかり、真っ裸になって一気に描き上げた。ものの十分もかからない間の出来事だった。やがて奥さんは戻って来られ、もう出来上がってしまった屏風を目前に見て、あっと驚き、「まあ」と一語もらされた。(柳)
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 棟方志功には、実はもう一つ「パントマイム旅行」という超傑作の「私のニューヨーク物語」(ムナカタ画廊顛末記)があります。掲載誌は芸術新潮第十一巻第一号/昭和三十五年一月号です。(7へ)


2001/09/02
(5) 山形・秋田から青森へ オンピト

 私の踊りは、村の記録だと思っています。自分の主張したいことを発表したり、なにかの意味を踊ることと違って、私は村で生きることの今を、踊っているのです。
 ここ大蔵村は人口も少ない、とても小さな単位の村と言ってもいい所でしょう。でも、人が歩いて、人が語り、人が笑ったり、泣いたりしているのですね。ここでも、そういう事実を踊りたいのです。小さな場所であっても生きていることの密度は変わりない。こういう所にもきちんと人は生きている。そういう細部を私はひとつひとつ辿っていきたいのです。自分の身体で現しめてみたいのです。
 だから、私のダンスは、生きることの記録だといってもいいのです。
 この村で体験する、この村のさまざまな様相が私の身体を通過し、そうして花が開くように在ること、私はいつも村とひとつなのです。(YAHOOから検索)
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 森繁哉の真髄には、土方巽と不自由さの肯定がある、というのが中沢新一の「哲学の東北」の一項目だが、土方巽は吾らがやまむすべのししがみ・かわらさんが最も若い分骨者の一人であったことから、そして、かわらさんは同時に白州の身体気象農場の田中(みん)の もとで踊りを鍛えたキャリアパスもあるのだから、土方については、ここでは東北のどこで生れたかの一点だけに絞ります。
 1928年3月9日、米山隆蔵,スガ夫妻の6男(11兄弟の10人目)として、秋田県雄勝郡新城村(現羽後町郡山)に生れる。その後、一家は南秋田郡旭川村(現秋田市)に転居しそば屋を営む。1946年、当時秋田市でモダンダンス研究所を開いていた増村克子に師事し、ドイツ系のノイエ・タンツを学ぶ。(土方記念資料館編の年譜からの抽出)とあります。
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 先を急ぎましょう。棟方志功は明治36年9月5日青森市で代々鍛冶職を営んできた父棟方幸吉・母さだの三男として生まれた。昭和50年9月13日72歳で亡くなる。お墓は青森市三内霊園にゴッホの墓と同じ形につくられ、静眠碑と名づけられている。(YAHOO検索)
 さて、その棟方については、私はかって、諏訪の地方紙長野日報に<「天才の秘密」、その身体性が問うもの>・・・・・茅野市美術館特別企画展「棟方志功展」に寄せて・・・で記事を寄稿しているので、しばらくそのことについて述べます。(6へ)






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